ルイ14世旅行記
フランス旅行記(6):6月24日(1)シティ・ラマ社でのトラブル、ベルサイユへ(by 旅人のくまさんさん)
<2004年6月24(木)>
今朝も5時の目覚まし、携帯の音で目が醒めました。時差ぼけの心配はないようです。いつもなら、この後、起き出すまでには少し時間をかけますが、今朝は6時前の地下鉄に乗るため、すぐに起きました。イギリス小旅行の用意は、昨日のうちに済ませておきました。
<早朝の出発、シティ・ラマでのトラブル>
自由旅行の中で、唯一事前に申し込んでいたのが「ロンドン1日旅行」でした。ユーロスターでイギリスに渡ってみたいと言う計画です。今日がその出発日でした。ところが、この計画は実現しませんでした。その顛末を記しておきます。
集合場所はルーブル美術館近くのシティ・ラマ社前、6時45分でした。この日は食事をせずに、6時前の地下鉄で出かけました。まだ人影がまばらな時間でした。順調に乗換えが出来、シティ・ラマ社へは30分前に着きました。旅行会社はまだ開いていませんでした。それで、セーヌ川沿いの公園などを散歩して時間を調整しました。
頃合を見計らってシティ・ラマ社へ戻ってみますと、既に何人かの人が受付を済ませていました。パリ市内観光や、パリ郊外観光など、色んなコースごとにバスが用意されていました。ところが、その受付で貰ったパンフレットには「パスポートが必要です」と記載してありました。
シティ・ラマ社のパンフレットが前日までに貰えていたら、当然ながらパスポートを持参しました。しかし、現地集合してから貰ったパンフレットに「パスポートが必要です」と書いてあっても遅過ぎます。シティ・ラマ社へ集合した時に
「パスポートが必要ですから、ホテルへ戻って持ってきて下さい。ホテルからは北駅に直接行ってください」
と聞けば、まだ間に合った時間です。しかし、シティ・ラマ社への丸投げ旅行なので、HI*の関係者は、全く顔を出していませんでした。
実は昨日の夜、HI*のパンフレット類を仔細に確認して、
「明日のイギリス日帰り旅行は、パスポートは要らない」
と判断していました。前日までは、パスポートを上着の内ポケットに入れて行動していましたが、出来る限り余分な物は持ち歩かないように考えたためです。
北駅往きのロンドン行きのバスには、男性の英語ガイドさんが付いていました。北駅に着くと直ぐに、
「パスポートをホテルのセーフティボックスに置いてきたので、今ここには持っていません。それでもツアーに参加できますか?」
と訪ねましたら、
「それはあなたのミステイクだ。参加は出来ない」
と、即座に回答が返ってきました。その後で、
「タクシーでホテルへ戻って、パスポートを取ってきたら?」
と、アドバイスしてくれましたが、もう時間がありません。私の方から
「ツアー参加は止めます」
と話して、ツアーを諦めました。このコースの日本人客は、私1人でした。
<ホテルへ戻って朝食>
北駅でロンドン行きを諦めた時間は、まだ8時少し過ぎでした。それで、朝食の場所を探そうと付近を捜してみました。しかし、よく考えれば、ホテルへ戻れば、まだ十分に朝食が摂れる時間です。
それで、思い直してホテルへ戻ることにしました。4号線で1駅先の2号線に乗換、そこから4駅先で13号線のプラス・ド・クリシー駅経由で戻るコースを選びました。
一旦は部屋に戻りました。朝食券を置いてきたからです。赤い小さな通し券で、滞在期間が手書きで記してありました。これをフロントで見せますと、部屋番号を記したリストに印をつけて、お盆を渡してくれます。
昨日はチップも出せませんでしたから、今日は枕もとに2ユーロを置いて、出かけてきました。勿論、部屋掃除が済んでいないので、そのままになっていました。翌日からは1ユーロにしました。
ホテルの食堂は混んでいました。昨日は早い時間に朝食を摂りましたが、今日は朝食のラッシュアワーに遭遇したようです。賄いの方が間に合わず、コップや皿だけでなく、料理の方も底をついているものが、いくつかありました。食事をしながら、今日の行動予定を考えました。
イギリス日帰り旅行は、早朝集合、帰着は夜の0時近くと、かなり厳しいスケジュールになっていました。それで、負け惜しみで書くのではないですが、結果的には寧ろ充実したフランス旅行を楽しむことが出来ました。空いた1日を利用して、今日は1日早めてベルサイユ宮殿見学と決定しました。フリー旅行ですから、ここらの変更が自由にききます。
<ベルサイユ宮殿へ>
ベルサイユ宮殿見学は、高速市外電車のエル・ウー・エル(RER)を利用することにしました。ホテルの最寄駅、ポルト・デ・クリシーがRERのC線との交差駅だったからです。
「RERの場合、行き先までの切符を持っていないと、検札で見付かった時は、5千円の罰則金が徴収される」とガイドブックで読んでいましたので、窓口で「ベルサイユ」と書いたカードを見せて切符を購入しました。
RERはエッフェル塔経由です。ブローニューの森を過ぎて、東にセーヌ川を渡るとエッフェル塔駅になります。ところが、ここでは電車は北向きになり、目的地とは反対方向となります。スイッチバックで南向きに変わるのか、それとも、そのままセーヌ川に沿って東にオルセー美術館方向に向かうのか、1/2の確率なので、そのまま乗車していました。
残念ながら、この賭けは外れて電車はセーヌ川を左手にして進みましたので、次の駅で降りました。南に向かうのであれば、セーヌ川は右手になるはずです。15分程して次の電車に乗り、エッフェル塔駅へ引き返しました。この駅で、「ベルサイユ行」の案内表示を探すことにしました。
運行案内のテレビ画面にベルサイユの文字が見付かり、2本の電車をやり過ごして、ベルサイユ行きの電車に乗ることが出来ました。やはり、エッフェル塔駅で反対側のホームへ渡る必要がありました。
試行錯誤があって、やっと、目的の電車の乗れた時は、正直ほっとしました。乗った電車は、確実に南往きの線路に沿って進みました。暫くは路線図の駅とホームの駅名を確認していました。
5割くらいの乗車率でしたので、車外がよく見える席に座りました。その後、通路を挟んだ4人掛けの席が明きました。その席には、フランス語以外の言葉を話す女学生さん3人が乗車してきて、腰掛けました。
学生さんたちは早速、それぞれ手にしたカメラで記念写真を撮り始めました。多分、スペインからやって来たのでしょう。そのうちの1人が、私にカメラを渡して3人の記念写真を撮って欲しいと、身振りで頼んできました。
窓際に3人顔を寄せてポーズをとりましたので、借りたカメラでシャッターを押しましたが、2回ともフラッシュが焚けませんでした。
それで、別のカメラを借りて、もう一度ポーズをとってもらいました。今度はフラッシュが光りました。早速、モニターで確認した3人は、「メルシー」ではなく、スペイン語(多分)でお礼を言ってくれました。その学生さんたちもベルサイユ宮殿見学が目的でした。
<素晴らしかったベルサイユ宮殿>
ベルサイユ駅は終点なので、ホームに人が溢れました。しかし、まだ早い時間なので、本当の混み方ではありません。乗り越しの人は精算用の列を作っていました。RERのペナルティは取られていないようでした。私は、出発駅で正規の区間を購入していましたので、自動改札機を通って駅を出ました。
駅前の道を渡ったところに案内看板がありました。右左折を繰り返して、名所旧跡を見学しながら宮殿に向かうコースと、左折一回だけの最短コースが表示されていました。大多数の人が最短コースを選んでいましたので、私もこのコースを選びました。2、300m進んだところを左折すると、後は宮殿まで一直線の並木道が続いていました。
宮殿が間近になりますと、並木は無くなり広い石畳の道に替わりました。広場の延長と言った感じでした。その石畳の先には、豪華な飾りがついた門と鉄柵がありました。この門を潜れば、いよいよベルサイユ宮殿です。この門は自由に出入が出来ました。
石畳の広い広場は緩いのぼり勾配になっていて、その両側には2、3階建ての長い建物が平行していました。広場の中心には太陽王、ルイ14世の騎馬像が聳えていました。駐車場には何台かのバスが駐車していましたが、ガラガラの状況でした。これから、その駐車場に続々と車が集まってくるのでしょう。
何処が入口になっているのか、咄嗟には分かりませんでしたが、入場券を売っているような短い列がありましたので、その最後尾に並びました。列の進みは遅かったですが、長い列ではなかったので、程なく入場券が購入できました。次は入口探しです。
入口は、チケット売り場より東側の奥にありました。団体用と個人客用に分かれているようでした。入場の際は手荷物検査がありましたので、少し時間がかかりました。最初に見学したのは「王室礼拝堂」です。この礼拝堂を見ただけで、この宮殿が並みの造りではないことが、直ぐに想像されました。
続いて見学したのが、正殿と呼ばれる6つの広間です。「豊饒の間」に始まるそれらのホールには、ギリシャ神話に基づく天井絵がそれぞれ描かれていました。
この天井画はすべてカメラに収めました。フラッシュを使用しなければ撮影は自由でした。正殿を過ぎて左に曲がりますと、白い豪華なシャンデリアが連なる「鏡の間」がありました。室内装飾はルイ14世の偉業をテーマにしたものでした。ベルサイユ宮殿の圧巻の1つです。第1次大戦の終結の条約は、この間で調印されました。
一通り室内見学を終えた後で庭園見学の方に移りました。ここは別料金でしたが、最初に購入した20ユーロほどのチケットには、この料金も含んでいました。この庭園は広大です。ガイドブックからその要点だけを紹介しておきます。
17世紀、ルイ14世は先祖代代狩猟場であったこの地に、「史上、最も大きく、最も豪華な宮殿を建てよ」と命令しました。この工事は1668年に着工され、「毎日2万人の人と、6千頭の馬が動員」されたといいます。セーヌ川から人工の運河に水を引く大土木工事もあリ、完成までに半世紀を要しました。
新緑の庭園をゆっくり見学した後、また本殿に戻りました。空には厚い雲が出て、時折小雨がぱらついてきました。黒い雲をバックに沢山のツバメが飛び交っていました。
昼食は、駅近くのカフェーでヘルシーなサンドイッチとハイネッケンビールで済ませました。缶ビールはもう1本追加しました。ビールは、「ハイネッケン」で通じました。
<エッフェル塔>
往きの乗換駅だったので、帰りはこの駅までエル・ウー・エルの乗車券を買いました。改札口で「エッフェル・タワー」と言いましたら、駅員さんは「エッフェル」の分だけ発音して、直ぐに切符を出してくれました。ベルサイユからエッフェル塔駅までは1時間とかかりませんでした。
遠くからは何度もこの塔を眺めましたが、近くでは今回がはじめてです。遠くから眺めたのは、その場所の大よその方角を知るためでもありました。パリ万博での建設以来、今でもパリ市内では一番のっぽな建造物であるらしく、遠くからでもよく確認できました。
パリの名所だけあって、人出が多く、物売りも多く見かけました。土産物では、金属製の小型のエッフェル塔の束を手にしている人がほとんどでした。少し離れた場所では、道路に土産物を並べている人もいましたが、これはどうやらご法度のようでした。仲間が、警察官が来たような指差し合図をしたら、直ぐに片付けてしまいました。
エッフェル塔付近の広場は、イベントがよく開催されているようでした。ホテルのテレビでも、ここで風船を飛ばす光景を見ました。タワーの橋脚の横には警察官詰所もあり、かなりの数の警官が警備に当っていました。自動小銃を手にした迷彩服の軍隊の姿も見かけましたので、治安維持には相当の配慮がされているようでした。
エッフェル塔は、フランス革命から100年後の1889年に完成した321mのタワーです。パリの名所の1つとして人気が高く、展望台へ登るエレベーターにはどこも行列が出来ていました。晴れた日には70km先まで展望できると言われますが、時間の都合で登るのは諦めました。
橋を渡ったセーヌ川の対岸に、シャイヨ宮が見えましたが、こちらも見学は省略しました。エッフェル塔は、下から眺めた構造物の幾何学模様が美しく、この写真を撮るだけで満足しました。
<オルセー美術館>
エッフェル塔からオルセー駅までは、まだかなり距離がありますので、この間もRERを利用しました。こ時は「オルセー」とだけ駅員さんに告げましたら、黙って切符を出してくれました。RERがこのオルセー駅まで通じているのは、その昔パリ万博の時の「オルセー駅」の名残のように思えました。オルセー美術館の前身は、そのオルセー駅です。
ルーブル美術館と並んで期待していたのが、このオルセー美術館でした。手元にある古い画集、「世界美術全集・印象派の画家たち」(1979年刊)に「印象派美術館蔵」と記してあるのが、オルセーの前身のようです。主要な作品が一致していたので分かりました。
オルセー美術館でも、フラッシュ無しでの撮影が許可されていました。どの作品を見ても名作揃いで、撮影するにはきりが無いほどでした。それで、特にお気に入りの画家の作品を中心にカメラに収めました。好きな画家といっても、ゴッホ、ルノワール、セザンヌ、マネ、モネ、ドガ、、、と沢山いますので、結局は軒並みカメラが向いてしまいました。
写真資料に日本語の説明を付けたのは、この古い画集で確認できた作品です。画集に載っていなかった作品は、写真に撮ったプレートから、そのままフランス語表記を転記しました。スペル間違いも多くあるかも知れません。
印象派の巨匠達が日本の浮世絵に多くの影響を受け、絵画や版画を収集したことは、日本でも紹介されてきました。自分の作品のモチーフに使ったり、輪郭線の技法を取り入れた人がいることも、良く知られています。葛飾北斎の構図の大胆さも、影響を与えたことの1つです。今でも日本では、印象派の画家達の作品展が繰り返し開かれていることは、これらの事が切り離せない伏線になっているように思えます。
オルセー美術館の入場料は7.5ユーロでした。ベルサイユで買った1日券が使えないか交渉してみましたが、「この券はベルサイユだけか通用しません」と言われ、改めて入場券を購入しました。
最初にカルト・ミュゼの1日券を購入しておけば、ベルサイユもこの美術館も見学できたはずです。ただし、ベルサイユの1日券は庭園も見学できたましが、カルト・ミュゼでは新たに庭園入場券が必要だったかも知れません。
<ノートルダム寺院>
ノートルダム寺院は、1163年に着工され、170年の歳月を費やして造られた、フランス・カトリックの総本山です。ノートルダムとは、聖母マリアを意味すると言います。
ビクトル・ユゴーの作品「ノートルダム・ド・パリ」で、カジモドが撞いていた鐘は、南側の塔だと言います。映画の筋は忘れてしましましたが、日本では「ノートルダムのせむし男」の題名で上演された映画でしょう。
入場する前に、寺院全体と各部の写真を出来るだけ丁寧に撮影しておきました。紙数の都合でその一部だけを収録しました。王家の寺院として建築されたゴチック建築だけに、外観でも十分な見応えがありました。
一通り撮影をした後で、短い列のあとに続いて入場しました。入場料は徴収されませんでした。内部で見事だったのは、ステンドグラスの数々でした。方位を考えてガラスの色も変えてあるようでした。例えば、青色のガラスを多用した「北のバラ窓」などの愛称がついていました。沢山のステンドグラスを撮影しましたが、その内から18枚を、この小冊子に収録しました。
<手乗り雀>
寺院の帰りに面白い光景を目にしました。手乗り雀です。掌にパン屑などを載せて指し伸ばしますと、一斉に雀が飛び乗ってきて、餌をついばみました。ついでに鳩も飛び乗ってきましたが、こちらは嫌われ者のようで、その都度追い払われていました。
その雀たちの待機場所は、平に刈り込まれた植え込みの上でした。この場所なら、不意に人や猫に襲われることがなく、安全な場所のように思えました。人や鳥が一方的にその場所を選んだわけではなく、阿吽の呼吸で決まった場所かも知れません。ただ単に偶然かも知れませんし、熱心に餌付けをした人が選んだ場所なのかも知れません。
ベルサイユ宮殿で
太陽の王は今もて主なり広場見下ろす蒼き騎馬像
フランス旅行記(11):6月25日(1)パリ:モンマルトルの丘、サクレ・クール寺院(by 旅人のくまさんさん)
<2004年6月25(金)>
今日がパリへ着いて4日目となります。昨日、ベルサイユ宮殿の見学をした後、パリ市内の名所、美術館などを回りましたので、近場では大分対象が絞られてきました。
当初は、少し足を伸ばして、世界文化遺産のモン・サン・ミッシェルの寺院を見学しようと検討してみましたが、個人旅行としては少し時間がかかりすぎるとの結論になりました。それで、次回、ゆっくりと時間が取れた時の見学先として残しておくことにしました。
<モンマルトルの丘へ>
朝一番にモンマルトルの丘、サクレ・クール寺院に出かけました。登りの坂道の事を考えて、朝の涼しい時間を選んだためです。いつもの地下鉄13号線、ポルト・デ・クリシー駅から3つ目のプラス・ド・クリシー駅で乗換です。2号線に乗換えて、ナシオン駅方面、3つ目がモンマルトルの最寄駅、アンベールです。今日は朝から快晴に恵まれました。
地下鉄の乗換にも大分慣れてきました。一番の要点は、終点方向の駅を覚えることです。2号線の場合、既に降り立ったことがある、英語読みでネイション駅と覚えた、ナシオン駅往きに乗ればよいことを予め調べておきました。
勿論、全部覚えきるのは大変なので、路線図は必携です。この旅でも、私の路線図を見せて欲しいと、話し掛けてきた学生さんもいました。初めての路線ですと、地元の人にも有用です。
降りたアンベール駅は、パリの中心部からは少し外れていますので、静かな住宅街と言った雰囲気の中にありました。
<サクレ・クール寺院>
サクレ・クール寺院への道筋は、駅から北側で、登り道と言うことで、適当に見当をつけて歩き始めました。写真で見た寺院が、丘の上に建っているということからの見当です。歩き始めて直ぐに、その白い尖塔が見えてきましたので、この勘は当っていました。
白い尖塔の全貌が見える位置まで来ましたが、鉄柵はまだ閉まっており、中では開門の準備のための人が働いていました。その前を過った左手、西側に寺院往きの小さなモノレールがありました。こちらは既に運転を開始していましたが、乗客は殆んどいませんでした。しまし、その左横に石段がありましたので、こちらを登ることにしました。
朝の早い時間に出てきたことは正解でした。モノレールがある位ですから当然ですが、石段を登るのは結構骨が折れました。ほかに観光客はほとんど見当たらず、石段を登っていたのは、犬を連れた散歩の人や、ジャージ姿の地元に人達でした。並木の木陰がありがたい天候でした。
サクレ・クール寺院は、1876年に着工され、1914年に完工したと言いますので、かなり新しい寺院です。一通り外観写真を撮った後、中に入りました。写真禁止の表示がありましたので、カメラはバッグに仕舞いました。
中では賛美歌が歌われ、何人かの信者の人が長椅子に座って参列していました。観光客はその一角とは仕切られた区域に椅子が用意されていました。賛美歌を歌っていたのは尼さん達5、6人でした。ご年配の尼さんが、ほかの尼さん達と向かい合って座り、全体の指揮をとっているようでした。撮影禁止の意味が、この荘厳な雰囲気で理解できました。
写真は撮れませんでしたが、サクレ・クール寺院の内部は印象に残りました。聖歌隊席を飾るキリスト像は、まだ若い時代を表現しているようで、手を広げたポーズでした。その頭上には神のシンボルの後光が描かれていました。吹き抜けのドームは85mの高さがあり、ステンドグラスも綺麗でした。東側から、このステンドグラス越しに朝日が射していました。
寺院を出た後、パリ市内の眺望を暫く楽しみました。南側にはセーヌ川が蛇行していて、今まで回ってきた幾つかの建物などが確認できました。西の外れにはエッフェル塔が遠望できました。この日は朝から快晴で、モンマルトルの丘に登るには絶好の日和でした。帰りも石段を使って、新緑の並木道の散歩を楽しみました。
<スリにご注意>
今回の旅行で、一番日冷や汗をかいたのが、サクレ・クール寺院からの帰りの地下鉄の中でした。寺院の見学を終えても、その電車は通勤時間帯で混み合っていました。私が乗車したのは、地下鉄2号線のアンベール駅です。
満員で奥の方へ進むことが出来ず、出入口付近の中央に立っていたら、右手の方に乗ってきた人がアンベール駅を発車して直ぐ
「ホワット タイム?」
と英語で尋ねてきました。がっちりした若い人で、ひげを生やして眼つきの鋭い人でした。時計は持参していなかったので
「エクスキューズミー アイ ハブント」
と、返事しました。相手は、まだ何か聴きたそうでしたが、取り合いたくなかったので、続けて
「アイ ドント ノー」
で会話を打ち切りました。ところがその間に、その男性の左側にいた眼つきの鋭い小柄な女性が、左手の方から強引に割り込んできました。どう言う訳か、手には大き目の黒いスカーフを被せていました。実は、このスカーフに隠した手で、私のバッグを開けようとしていました。
財布はバッグに入れておらず、デジカメを2台入れていただけでした。そのカメラの1台が落ちそうになったところで、スリは、未遂に終わりました。バッグのチャックは完全に開けられていました。
ジプシーと思われる小柄な女性は、私に話し掛けてきた男性と、険しい顔で短い会話をした後、次の駅で、あわてて二人で降りていきました。
スリの女性が強引に割り込もうとしていた、私の隣の男性が、この女性のおかしな動作に気付いてくれました。これが、未遂に終わったことに寄与してくれました。スリのペアが次の駅で降りた後、直ぐにその男性に「メルシー」と頭を下げてお礼を言いました。その男性は、車内が空いてきたところで座席に腰掛けられました。その後、私が先にその電車を降りることになりましたので、改めてもう一度お礼を言って、その電車を降りました。
スリ被害無しで済んだことは、実に貴重な体験となりました。乗換駅であるサン・ラザールでは、その後気が付きましたが、フランス語、英語、中国語、日本語でスリに注意の構内アナウンスを流していました。自分で経験して、はじめてその意味が実感できました。
<凱旋門近くでの火事騒ぎ>
モンマルトルのアンベール駅からは1号線との交差点駅まで乗りました。凱旋門駅です。ここから西に向かって歩くことにしました。ブローニュの森や、新都市、ラ・デファンスの方面です。
凱旋門駅からは通りの北側を歩きましたが、けたたましい音を立てて消防車がその前を走っていきました。その火災現場は、凱旋門から程近い場所でした。すぐに先ほどの消防車が止まっている場所に行き着きました。ホースを伸ばしたり、ボンベを背負った消防士の人たちが慌しく立ち回っていました。歩道の交通規制がされていなかったので、暫く近くで様子を窺がいました。
火災があった建物は、改修工事用のシートがかかっていました。火災原因が工事中の火花ではないかと推測されました。その1階は開店中の飲食店なので、こちらが原因かも知れませんでした。
現地で指揮をとっていたのは、ジーパン姿の私服の若い女性の方でした。その腕には、「ポリス」の腕章をつけ、手にしたトランシーバーで本部へ連絡を取りながら、現地でも指揮をとっていました。
消防士は全員ボンベを背負っていました。先頭の人は、大きなハンマーを手にしていました。放水は一時休止されて、幾つかのグループに分かれて火災現場に入って行きました。飲食店から団体客が出てきたのは、5分以上も経ってからです。ハンカチを手にしたり、咳き込んだりした人が多くいました。火災現場からは、時々白煙が吐き出されました。救急車も到着していましたが、その時点で、重傷者はいないようでした。
思わない火災現場に遭遇しましたが、日本の火災現場との違いは、個人主義が徹底していることでした。立ち入り禁止のロープを張ったり、交通規制は全くありませんでした。それぞれが、自己責任で火災現場を見守っていたような気がします。
<新都市、ラ・デファンス>
火災現場には15分ほどもいたでしょうか?その後は、更に西に向かって歩きました。遠くには新凱旋門と呼ばれる箱型の建物が見えてきました。地図で確認しますと、ブローニュの森の北側を過ぎてセーヌ川にかかる橋に達していました。
更に西に歩きますと、ラ・デファンスと呼ばれる超近代ビル群が立ち並ぶ新都市に達しました。凱旋門からは4kmの位置です。町全体が立体都市のような不思議な空間です。超近代ビルの中にオアシスや噴水、並木がありました。有名企業の商業ビルと、ショッピングセンター、レジャーセンターが複合した近未来副都心を形成していました。
この辺りで昼食を摂ろうとも思いましたが、実は、少しこちらの料理に飽きて、朝から鰻を食べようと決めていましたので、ここでは我慢しました。噴水のある広場付近には、ファストフードの店も開き始めていました。かなりの距離を歩きましたので、お腹も空いてきました。目指す鰻の店は、ルーブル美術館の北側にあることを下調べしていました。
ルーブルまでは地下鉄1号線で乗換無しです。お洒落で近代的なビル群の真中に、ラ・デファンス駅がありました。ルーブルまでは12、3駅、始発駅のようなので、ゆっくりと腰掛けることが出来ました。
<パレ・ロワイヤル>
昼食の前にもう1箇所だけ見学しました。そのパレ・ロワイヤルは、ルーブル美術館とは道路を挟んだ北側になります。もともと、宮殿の一部であったらしく、ルイ14世が幼少時代を過ごしたと言われます。そのルイ14世は、パリを嫌ってベルサイユへ宮殿を移してしまいました。目指す鰻屋「野田岩」方面には順路です。
パレ・ロワイヤルには回廊が設けられ、今はブティックや骨董品屋さんが店を連ねています。回廊の石柱が宮殿の名残を残していました。回廊には挟まれた中には並木道があり、綺麗に刈り込んでありました。木陰のベンチでは、ゆっくりと時を過ごす年配の方を多く見かけました。花壇も手入れされていて、バラやダリア等が咲いていました。
<鰻に白ワイン>
パレ・ロワイヤルの見学を早々に終えて、「野田岩」を探しました。地図で見ますと、日帰りロンドン旅行を諦めたシティ・ラマ社の少し北側に当たります。目印にしておいたアンドレ・マルロー広場にやって来た後、すぐに「野田岩」の店が見付かりました。まだ準備中でしたが、日本人の女将さんが店に通してくれました。ほかに日本語が分かるフランス人スタッフもいました。
ガイドブックから「野田岩(のだいわ)」を紹介しておきます。「東京麻生の老舗鰻店が出展したフランス初の本格鰻店」とありました。最初に鰻重とハウスワインのグラスを頼みました。突き出しに酢の物が出されました。焼きもタレもいい、本格的な鰻でした。山椒も容器に入ったものが用意されていました。
鰻重が運ばれてきたところでハーフボトルの白ワインを追加注文しました。15ユーロ程したその白ワインは、「Chateau Tourte Des Graves 2002」でした。まだ若いワインですが、鰻によくあう辛口でした。今回の旅行では一番贅沢をした食事で、締めて50ユーロと少しでした。
隣の席では、旦那さんのフランス転勤でご一緒されていると思われる30代から40代の女性4人が座られました。入店されるなり、お喋りに余念がありませんでした。
漏れ聞く話から、どうやら久し振りの外食のようでした。それぞれの悩み事を、思い思いに話されていましたが、話している人ばかりで、聞いている人がいないような雰囲気でした。それでも、お互いに満足されている風でした。
<2回目のルーブル美術館>
食事の後は、2回目のルーブル美術館見学を楽しみました。1回目に見落としたミロのビーナスを最優先しました。比較の意味もあって、もう一度サモトラケのニケも見学しました。陶器類もゆっくりと見学しました。
ガイドブックから少し紹介します。現在のルーブルは、故ミッテラン大統領の指揮により1981年から大改造計画により、1993年に新しく生まれ変わったと言います。今は完全にルーブルの顔となりました、出入口であるガラスのピラミッドも、この時に出来上がったものです。収蔵品は30万点にのぼるとされ、常時展示されているのは、その内の2万6千点と言われます。代々の国王の所有品、ナポレオンの戦利品、一般からの寄贈品などが元になっています。
<夜のシャンゼリゼ大通りで赤ワイン>
今晩もホテル前のカフェーで生ビールを飲んだ後、夜に備えて早めにホテルへ戻りました。と言っても外は明るいものの夕方です。夜の10時位にならないと暗くなりません。それからが、夜の散策へのお出かけ時間です。
この日、いつも通り、10時頃に、地下鉄の乗って出かけました。行き先はシャンゼリゼ大通りです。13号線はシャンゼリゼ・クレマンソー駅で交差しますので、この駅で1号線に乗り換えました。1号線では、1つ西のフランクリン・ルーズベルト駅で降りました。
ここはもう、シャンゼリゼ大通りの中間に位置しています。最初、この駅から凱旋門までを南側の通りを歩きました。昼間は気が付かなかったのですが、夜になるとクラシックな建物の奥まで明りが煌々と灯され、大勢の人で賑わっていました。
凱旋門の手前で北側へ渡り、東へ戻りながら夜のシャンゼリゼの賑いを楽しみました。車から身を乗り出して青い旗を振ったり、単車で隊列を組んで大声を上げている人達が、賑やかな通りを、一層賑やかにしていました。この人たちはテレビでもニュース番組でも報道されていました。どうやら、欧州サッカーで優勝したギリシャの選手達を応援する人達だったようです。
歩き疲れたところで路端のカフェーに入って赤ワインを頼みました。テーブル席に座って、ゆっくりとパリ最後の夜の雰囲気を楽しみました。泊ったホテル近くの、立ち飲みのカフェーでは3.5ユーロでしたが、ここでは8.5ユーロと少し高めでした。しかし、量は多く、十分に満足できる赤ワインでした。
サクレ・クール寺院で
石段を登りて猶も石畳モンマルトルの寺院に続く
賛美歌を聞きつ聖堂仰見ぬ朝日彩るステンドグラス
賛美歌を歌い終えたる聖女らはしじまの中を退席したり
白き雲従へ聖堂丘に建ちセーヌの流れ遥か見下ろす
ドイツ・スイス・パリ9日間の旅 その3 (by tanakaさん)
ドイツ ロマンチック街道・ノイシュバンシュタイン城
スイス アルプス2大名峰(マッターホルン・モンブラン)
パリ ベルサイユ宮殿・ルーブル美術館
6泊9日で3つの国を訪れる旅です。
*7日目
終日”華の都”パリ市内観光へ。 午前は
ルーブル美術館・ノートルダム寺院・シャンゼリゼ通りなど
午後は、お一人様 13,500円 所要時間3時間のOP
モンマルトルの丘とエッフェル塔観光に参加も、企画今一かも?
モンマルトルの丘のトイレ状態最悪でした。
*8日目・9日目
朝食後、パリ郊外のベルサイユ宮殿へ。
早くの出発だったので、宮殿にはスムーズに入場できました。
**ベルサイユ宮殿は・・
ルイ14世が莫大な費用と長い年月をかけて造った壮麗な宮殿です
宮殿の観光後、空港へ
パリ発 14:00のCX-260便にて香港乗り継ぎ、台北経由にて帰国の途へ
(パリ〜香港間 約11時間45分)
セントレア到着は、12日 15:40でした。
最後までのお付き合いありがとうございました。
【旅行時期】2006/07/10~2006/07/12
【エリア】
パリ
【テーマ】
【投稿者】
tanaka
ロマンチック街道〜スイスアルプス〜パリ・モンサンミッシェル【5】(by halkaさん)
今回の旅行は、
ドイツ ロマンチック街道〜スイスアルプス〜パリ・モンサンミッシェルへの母娘の旅。
7日目のスイス・ジュネーブ〜パリ〜ヴェルサイユ宮殿
7日目:6月24日(火)
ジュネーブ・holiday innで、ドイツローテンブルクからずーっと一緒だったドライバーさんとお別れ。
というより、前日の段階でお別れして、翌朝早くフランクフルトに戻るって言ってたけど、
朝ホテルを出発しようとしたら、ロビーでコーヒー飲んでるドライバーさん…。
お世話になりましたってのと、今日早く帰るんじゃなかったの?
っていう会話をして、お別れ。
ジュネーブの駅までの間に、4年前泊まったホテルとか発見して、
若干テンションあがりながら、駅到着。
駅で残ってたスイスフランをユーロに両替。
ここからは、TGVで一路パリを目指します。
前にニースからジュネーブ入りしたときは、
パスポートチェックがあったけど、今日はなく。
それに備えて、ホテル早めに出発してたんだけどね…。
TGVの中で、昼食。ジュネーブにある和食屋さんのお弁当。
今まで食べてきたお米と違って、日本のお米の味がしました。
そういえば、このときのったTGVはなんかものすごい旧型みたいな感じで、
内装も汚かったなぁ…。
13時頃パリ・リヨン駅到着。
ここはただひたすらアシスタントさんに連れられ、駐車場のバスへ。
そもそも同じような旅程でジュネーブからパリに来ている日本人ツアーがたくさんいて、大混乱。
ここから、ヴェルサイユ宮殿へ。
パリ市内・セーヌ川沿いを通って。
ものすごい渋滞で、結局ヴェルサイユ宮殿で予約してた時間に間に合わず。
ヴェルサイユ宮殿は…、ものすごい人。。
入場にも時間がかかるし、一部屋一部屋の移動にもすごい時間がかかる…。
煌びやかすぎて、、途中から飽きる。。
なんせ記憶ものの世界史が大の苦手な私は、
ルイ14世〜16世の時代に何があったのか、とかホントよく覚えてない。
やっぱ海外旅行で歴史ある街に行く場合は、事前勉強が大切。
ヴェルサイユ宮殿を出て、パリへ。
凱旋門で母親に起こされるまでずっと寝てた…。
凱旋門を車窓から眺め、シャンゼリゼ通りも車窓から眺め、
コンコルド広場を車窓から眺め、
ダイアナ元妃が亡くなった現場を通り、
エッフェル塔のたもとへ。
バトーパリジャンでセーヌ川クルーズ1時間。
セーヌ川沿いは、世界遺産。
右岸も左岸も見所がいっぱい。
ただ、このバトーパリジャン、電話の受話器みたいなハンドセットというもので、一応解説してくれているのですが(日本語でも)、
どういうタイミングで話すのか分からないので、
ずっとこれを持ってなきゃいけなくて、、、でも重くて、
結局解説を聞くのを諦めて、ひたすら写真を撮ってました。
セーヌ川クルーズを終えて、またコンコルド広場を通って、夕ご飯。
この日の夕飯は、エスカルゴ。
夕飯食べ終わって、この日のホテルは、プルマンベルシー。
4つ星ホテルでかなり設備は充実。
外観も高級って感じ。
2連泊なので、せわしなくなくてよかった。
今日は2つの世界遺産を制覇!
夜のヴォール・ヴィコント城(by よんよんさん)
ニコラ・フーケの居城。
ベルサイユ宮殿のルーツにもなったこのお城。
ルイ14世を招いたパーティで、その豪華さが逆に王の不興を買い、フーケは投獄されたのですが、そのパーティーが催されたのがちょうどこの日8月17日。
この日と8月の土日(7月も??)の夜はキャンドルナイトという、ろうそくの灯りの中お城を散策できるのです。
正直キャンドルの灯りは暗すぎて、せっかくのお城の内装は暗くてよくわかりません(笑)
このお城の豪華さををよく堪能したいのであれば、昼間来た方がよいかもしれない・・・。
でも夜のお城に入れる機会はなかなかないと思うので、大満足でした。
でも暗くなるのが遅すぎて花火開始が23時半!
語学学校のバスツアーだったので見れなかった・・・(涙)
ルイ14世に関する質問
ルイ14世が、ナントの勅令の廃止をした訳
ルイ14世が、ナントの勅令の廃止をした訳今、世界史を勉強している高校生です。最近、フランスの発展でアンリ4世・サン=バルテルミの虐殺・ナントの勅令・....などいろいろ習いました。しかし、一つの疑問が出来てしまいました。それは、質問本文でも書いたのですがアンリ4世がだしたナントの勅令をルイ14世が、廃止をした訳です。アンリ4世が、国内の内乱をしずめるために(彼からしたら妥協策のようなものだったようです。)ナントの勅令をだしたそうです。このころの、フランスは財政的にも豊か(重商主義政策などで)だったり、軍制を改革し、ヨーロッパ最強の陸軍になったりと発展していったそうです。でも、ルイ14世がだしたナントの勅令廃止により、商工業者(ユグノーたち)が国外へ移住し、フランスの経済発展にダメージを与えてしまいました。疑問に思い、ルイ14世が、ナントの勅令を廃止した理由をインターネットで調べてみたりしました。・ルイ14世は、多くの女性を愛したらしくその中で最も愛した人がカトリック派の人だったから廃止したという説。・廃止しても国民は自分についてくると思ったから廃止したという説。・新教徒はルイ14世の絶対王政的な政治方針に逆行する存在であり、従属させる必要があったから、そのために、カトリックの権威を復活させることがほぼ唯一の選択だったから、廃止したという説。などなど…と、いろいろでてきました。 昔のことなので、いろいろ説はあると思いますが、一番有力な説はどのようなものなのでしょうか?長々と書いてしまって、すみません。どうか回答をお願いいたします。もちろん、回答は回答者様のご意見でも構いません。

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ルイ13世が王妃アンヌ・ドートリッシュを迎えてから23年目にしてやっと生まれた長子である。宰相リシュリューやジュール・マザラン マザランの子であるとの噂もあるが、どうやらリシュリューが一方的に思いを寄せていたようである。彼が「王妃が自分の好意に応えてくれない」と書いた日記も発見されている。また、アンヌがルイ14世を妊娠した1637年の12月5日は、まだマザランがイタリアにいた時期であり、このマザランが父親という話の方も、単なる噂話である。当時ブルボン王家の男子はルイ13世の弟であるオルレアン公ジャン・バプリスト・ガストンのみであり、ブルボン家はルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだ。画像:Louis xiv 8 years old.jpg thumb right 150px 8歳のルイ14世
ルイ14世の詳細