王政復古旅行記
日本の旅 関西を歩く 倒幕を果たした戊辰戦争の跡をたどる(by さすらいおじさんさん)
京都で勃発した鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい1868年1月27日)は、倒幕を果たした戊辰戦争(ぼしんせんそう1868-1869年)の火ぶたを切った戦闘だ。新政府はどのように倒幕を成功させたのか、プロセスを追ってみた。
薩摩藩の大久保利通(おおくぼ としみち1830-1878年)や公家の岩倉具視(いわくら ともみ1825-1883年)らの策略で1868年1月3日に発せられた王政復古の大号令により、15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ1837-1913年)に対し辞官納地が命ぜられ、旧幕府旗本や会津藩の過激勢力は、いきりたった。このとき徳川慶喜は臣下をおさえ、総裁(首相)の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう1835-1895年)に恭順の意思を示すために京都の二条城から大阪城へ退去したものの「領地返上」には応じなかった。
強硬派・大久保利通らは慶喜の見せかけの恭順を責め即時倒幕を主張したが、松平春嶽(まつだいら しゅんがく1828-1890年)、岩倉具視ら多数は「徳川家の領地を調べ、政府会議をもって確定する」というおだやかな命令案に決定し慶喜の反応を見ようとした。
追い込まれた慶喜は旧幕府軍が官軍であると主張、勝手し放題の賊軍・薩摩征伐を名目に京都制圧をするために出兵、新政府の強硬政策に不満を持つ旧幕府軍主力の幕府歩兵隊、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組らも戦闘態勢を取った。
旧幕府軍の動きを反乱と決め付けた政府議定岩倉具視、政府参与の大久保利通らは徳川討伐を決し、にらみあいを経て1868年1月27日に「鳥羽・伏見の戦い」の火ぶたが切られた。
薩摩藩兵中心の新政府軍は5000名、旧幕府軍は15000名と数では旧幕府軍が圧倒していたが指揮官の不在・逃亡など統制されない旧幕府軍は混乱し土方歳三(ひじかた としぞう1835-1869年)率いる新選組さえも新政府軍(薩摩小銃隊)に敗れた。
1月29日には明治天皇(めいじてんのう1852-1912年)が小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう1846-1903年)に錦旗(にしきのみはた)を与え(岩倉具視・偽造説もある)、新政府軍が官軍、幕府が賊軍となった。まさに「勝てば官軍」だ。旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でもあった淀藩主・稲葉正邦(いなば まさくに1834-1898年)を頼み淀城入城を計るが淀藩は官軍・新政府と戦う意思がなく、賊軍・旧幕府軍の入城を拒んだ。旧幕府軍はやむなく淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃した(「淀の戦い」)が惨敗した。
幕府軍はさらに南に後退し、石清水八幡宮を奉じる男山と男山西側の遊郭がある宿場・橋本に土方歳三率いる新撰組を主力とする幕府軍の本隊が陣を張ったが対岸の大山崎を守備していた津藩が新政府軍側へ寝返り、旧幕府軍は総崩れとなって淀川を下って大坂へと逃れた(「橋本の戦い」)。
慶喜は大坂城に待機していたが、旧幕府軍の敗戦が決定的になると、大阪湾に停泊中の幕府軍艦・開陽丸で江戸に逃げ帰り幕府軍の士気は一気に低下した。一連の戦いで新政府軍が優勢になり多くの藩が旧幕府軍を見限ったことで、旧幕府軍の全面敗北となり1868年4月5日には幕府側を代表する勝海舟(かつ かいしゅう1823-1899年)と新政府代表・西郷 隆盛(さいごう たかもり1828-1877年)が薩摩藩下屋敷で会談し江戸城無血開城を決定し5月13日に新政府への受け渡しが完了した。
江戸城無血開城完了後も新政府軍への服従を固辞する旧幕府軍によって、戊辰戦争は江戸市街での彰義隊(しょうぎたい)による上野戦争(うえのせんそう1868年7月4日)、白虎隊(びゃっこたい)の悲劇で語り継がれる会津戦争(あいづせんそう)、徳川家海軍副総裁・榎本武揚(えのもと たけあき1836-1908年)率いる箱館戦争(はこだてせんそう)などへと続くが1869年6月27日に榎本武揚が五稜郭を開城し戊辰戦争は終結した。
鳥羽・伏見の戦いは数では圧倒的多数ながら徳川260余年の慢心で統率力が弱体化した幕府軍に対し,知略を働かせた岩倉具視、大久保利通らの新政府軍が「勝てば官軍」を知らしめた戦いで、日本の新しい歴史を創った戦いであったといえるだろう。京阪伏見桃山駅近くには鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)の弾痕が残る料亭があり、激しい戦闘の様子を垣間見ることができる。
(写真は鳥羽・伏見の戦いの弾痕)
ルアンプラバンの思ひ出(by zakoneboyさん)
仏教都市ルアンプラバン。
早朝からプーシーの丘に登れば、こちらとしても神妙な気持ちに為らざるを得ない。
陽が高くなるつれ、街を覆い人々を眠りに沈めていた朝靄が、
徐々に異界へと消えてゆく。
仏舎利から眺むその景色も、不思議と神がかりにさへ思える。
さてと、今日は8時からパークウーとラオラーオの村を巡る1dayツアーだ。
とは言ってもご存知の方ならご存知だろうが、
ツアーの内容は特に書くに足らない。
特筆に価するのは、
せいぜいパークウー対岸のレストランで食べた水牛の肉の硬さくらいだろう。
ただこの街は退屈なくらい退屈で、またその素朴さを楽しむべき場所なのだ。
うんうん。とツアー帰りに自分で勝手に納得していると、
街の様子がちょっと変だった。
何だか暑い。茹だるように暑い。
って言うか街中の人が完全に茹だっている。
一体何があったのだ?
ホテルに帰還してその答えがわかった。
ルアンプラバンの街が完全に停電していたのだ。
仕方ないので、シーサワンウォン通りへ行ってみると、
何だか人々が蜂の巣を突いたような落ち着かない様子に、
何だか同じようにうろたえてみたくなった。
やたらと紙を配りまくってる人がいたので、
周りの人と同じように貰ってみた。
ラオス政府が国境を閉じたのか?それとも
王都と呼ばれたこの街で王政復古のクーデターでも起きたか?
路肩に座り、この紙をじっくり読んでみる事にする。
なになに、この絵の様子からいくと、各種、肉の税金が上がるらしい・・・。
思わず「そーぼくー!」と声をかけたくなる。
停電とはまったく関係が無いようだ。
やがて陽が暮れ、
シーサワンウォン通りにナイトマーケットの準備が整うと、
各露店が立てるロウソクの灯りが何百メートルに渡って揺らめき始めた。
人々が往来する。灯りが揺れる。
店主がこれ見よとばかりに布を広げる。灯りが揺れる。
観光客がそれを値切る。灯りが揺れる。
灯りが渚のようにキラキラと煌く様は、まさに神がかりにさへ思えた。
1dayツアー:$35(高い!) Tシャツ:3枚で$6 関羽っぽいネックレス:$1
日本の旅 東京を歩く 北の丸公園と靖国神社(by さすらいおじさんさん)
北の丸公園(きたのまるこうえん)は、江戸城の北の丸跡にあり、旧江戸城の遺構の田安門、清水門や色づきはじめた木々を見ることができた。
靖国神社(やすくにじんじゃ)は、北の丸公園から徒歩約10分。旧称は東京招魂社で祭神は近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に就き戦没した軍人・軍属ら。
1869年、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した戊辰戦争(1868-1869年)での朝廷方戦死者を慰霊するため、戊辰戦争を勝利に導き日本陸軍の創始者といわれる大村益次郎(1824-1869年)の献策により「東京招魂社」(とうきょうしょうこんしゃ)として創建され1879年に「靖国神社」に改称された。
1978年、靖国神社が死刑及び獄中死の極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯とされた14名(板垣征四郎、梅津美治郎、土肥原賢二、広田弘毅、木村兵太郎、小磯国昭、白鳥敏夫、東郷茂徳、 松井石根、松岡洋右、武藤章、東條英機、永野修身、平沼騏一郎)を「昭和時代の殉難者」として合祀したことに中国、韓国などが反発し総理大臣の参拝について強い批判が出ている。明治維新以降の富国強兵・大陸植民地化政策に苦しめられたアジア諸国から見れば、大陸植民地化を先頭に立ってリードしたA級戦犯を神として敬うことはかつての侵略戦争を正当化、賛美し再び日本が軍国主義に戻るのではないかと危惧しけん制したくなる気持ちも理解できる。戦没者を慰霊することは日本国民として大切だが、靖国神社が軍人を神として礼賛し、中国・旧満州の瀋陽など植民地化した国の拠点にも靖国神社の分社を建てて、大日本帝国人民として現地人にも参拝を促してきた歴史を見ると総理大臣が「2度と戦争をしない平和国家にすることを誓うための参拝」といくら説明してもアジア諸国は感情的に納得できないのではないだろうか。アジア諸国の人たちを傷つけない戦没者慰霊を行ってほしいと願っている。
(写真は北の丸公園前の光景)
パリの町歩き(2)・・・都市軸を西に向かって歩く(by スキピオさん)
【カルーゼルの凱旋門】
この門の中にコンコルド広場のオベリスクもシャンゼリゼ通りの端に立つ大凱旋門も一直線に入る(拡大して下さい)。もっとカメラの目がよければ隣町デファンスのグランド・アルシュも見えるはずだが・・・これこそル-ヴル宮殿から延びる西に向かうパリの都市軸だ。
「カルーゼル」とは馬のパレードをする馬場のこと、ここは「カル-ゼル広場」と呼ばれている。この凱旋門はナポレオンの1805年の戦勝を祝って作られた(1808年完成)。門の上の女神像は王政復古を象徴する女神で勝利の女神を従え、四頭立ての二輪戦車を走らせている。
【旅行時期】2006/08/01~2006/08/20
【エリア】
パリ
【テーマ】
【投稿者】
スキピオ
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歴史の質問です!!戊辰戦争のはじまりの理由を教えて下さい。王政復古の大号令と関係があると調べてでてきましたが、イマイチよくわかりません・・・(Д)よろしくお願いします!!!!!

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王政復古とは?
王政復古(おうせいふっこ, restoration)は、かつて君主によって統治されていた国家において、一度はクーデターや内戦などによって廃止された君主制が、何等かの理由によって復活することである。
王政復古は2類型に分類できる。1つ目は、王家は制度上存在するものの立憲君主制や豪族支配等により君権が抑圧された状態から、君主親政が復活するケースである。例として、日本の明治維新(1868年の徳川家の支配からの王政復古)、ネパール(1951年ラナ家の支配からの王政復古、2005年の立憲君主制からの王政復古)がある。2つ目は、共和制の状態から君主制が復活するケースである。イギリス(1660年)、スペイン(1975年フランシスコ・フランコ・バハモンデ フランコ独裁からの王制復古)、カンボジア(1993年内戦の収拾と民主化による王制復古)等がある。
王政復古の詳細