第一次世界大戦旅行記

中国旅行記11(6):12月9日(1)青島・2箇所の市場見学(by 旅人のくまさんさん)

第一次世界大戦
<2006年12月9日(土)>

 旅行2日目の、この日のメモからです。「7時起床、7時30分モーニングコール、9時ホテル出発、薄曇、朝寒し」でした。早目に1階のレストランで朝食を済ませ、付近を散策して来ました。2泊3日の小旅行では、今日が一番の観光尽くしの日です。朝は冷え込みましたが、天候は上々です。冷え込んだのも、天候がいいことの証左かも知れません。

<早朝の散歩>
 モーニングコールの時間には、既に朝の仕度が済んでいましたから、早めに朝食を済ませて、付近の散策に出掛けました。ホテルから東方面には何もないようでしたから、向かったのは、昨日と同じ西側方面です。
 朝の冷え込みは厳しく、コートを羽織っての外出でした。30分程を予定していましたが、西方面への散策は早々に終えて、ホテルへ引き返しました。そのホテルの前では、朝早くから出掛ける車が、既に玄関に横付けされていました。中々立派な車ばかりでした。
 そのまま部屋に戻るのも。時間が余り過ぎましたので、ホテルの前をやり過ごし、南側方面に向かって坂を登りました。台湾路と呼ばれるホテルの前の通りです。その散歩からも早々に引き返しました。

<市場見学>
 海外旅行の際に楽しみにしているのが、市場見学です。その国の台所事情と、自然環境が透かし見えるようで、興味が尽きません。今夏の旅行でもその市場見学が組み込まれていましたから、期待していました。
 9時にホテルを出発して、その市場はさほど時間がかからない場所にありました。露店と言った方が似合う、市場でした。しかし、そこで扱われている魚介類は、今海から揚がったばかりの活きの良さでした。新鮮な魚介類で、籠が満ち溢れていました。
 写真編にも掲載しておきましたが、貝類では牡蠣、アサリ、赤貝、帆立、サザエに似た巻貝、蟹類は渡り蟹と、それより一回り小さい獰猛な種類の蟹、蝦蛄(シャコ)など、魚ではヒラメ、太刀魚、マナガツオの他、ナマコもいました。
 この小冊子を書きながら知ったことですが、黄海は有明海と類似の干潟を持ち、韓国の仁川等とも生態系が類似しているようです。その干潟が、都市化、工業化の波で近年急激に減少し、環境問題が深刻化しているようです。また、渤海と黄海は同じ大陸棚を持ち、環境保護の面では、共通の課題を抱えているようです。

<二つ目の市場見学>
 最初の市場見学を終え、更に東方面に走って、二つ目の市場見学をしました。東方面は地図で確認したわけではありませんが、右手に海が見えましたから、それで判断しました。新市街を通り越し、付近に民家も無い片田舎でした。
 その市場は、通りから坂を100m近く登った場所にありました。開いているかどうか分からない時間でしたから、全員バスに残って、現地ガイドのグーさんが、その市場へ先行されました。
 その市場の入口でグーさんがOKのサインを出されましたので、全員揃って市場見学に坂を登りました。最初の市場とは違って、鮮魚ではなく、もっぱら加工食品を販売していました。内部の写真撮影はお断りされました。同行の方は、干物や海苔等をこの市場で買い求めていました。試食の品も置いてありましたが、魚の干物は少し干し方が浅く、生臭い感じが残りましたので、買うのは止めました。

<小魚山公園>
 旅行の前に徐さんが送って頂いた旅行計画書から引用して、小魚山公園について説明しておきます。
 『小魚山公園、元々青島休止外の普通の丘でした。以前は漁民達が魚と網を干すところでしたから、こう名付けました』
 『青島旧市街の全景を眺望する最適な場所ですから、1995年に公園が建設されました。公園面積は800平方米、頂上には閣高18米、屋根には、緑色の瑠璃瓦が使われた「覧潮閣」と呼ばれる建物が建っています』
 と、紹介されていました。現在では青島の十景に選ばれたり、省クラスの風致地区にも指定されているようです。その見所を紹介します。
 まず最初に、独逸租界時代の旧市街地です。オレンジ色の屋根の市街地が四方に広がります。壁の色も白か黄色系統に統一され、落ち着いた感じの欧風の町並みです。租界時代は不幸な時代だったでしょうが、折角残った歴史遺産ですから、この後も保存されれば、観光資源として大いに役立つものとなるでしょう。
 目を南側に向けますと、匯泉湾の眺めが一望できます。青島で一番の人気があると言われる第一海水浴場は、この湾に面しています。魯迅公園も、この湾を望む西側の一角です。その中に水族館もありますが、この場所からは良く分かりませんでした。パンフレットには、覧潮閣に登れば、迎賓館、青島駅、キリスト教会、小青島、水族館、海軍博物館、青島テレビ塔が眺望できると解説されていました。

<ドイツ公邸址、迎賓館>
 次の見学地は迎賓館です。小魚山公園とは余り離れていない旧市街地の中にありました。元は独逸公邸だった由緒ある建物です。1914年の第一次世界大戦での独逸が敗戦し、独逸租界時代が終了した後も、青島は日本の占領地として、苦労の時代を迎えました。帝国主義時代の日本から返還されたのは1922年のことです。
 青島紹介の公式ホームページらしきものがありましたから、その青島紹介を引用させて頂きます。
 『本来はドイツ総督の官邸でしたから「総督楼」か「提督楼」と呼ばれていました。1930年代から当時の国民党政府要人がよく泊まりましたから、迎賓館と呼ばれ始めました』
 と、その経緯が紹介されていました。更にその建築物については、
 『この建物はドイツの著名な建築家によって設計され、1903年に着工、1908年に完成しています。高さ30m、建築面積4,080平方米の建物は、100万ドイツマルクを費やして建てられました。その総督は、お金を使いすぎて、ドイツ皇帝にも怒られ、首になったそうです。建築全体は石造りです』
 と、紹介されています。総督が首になったエピソードは、この迎賓館を説明して頂いた、日本語が達者な案内の方からもお聞きしました。更に内装については、
 『内装は絢爛豪華で、厨房、会議室、ダンスホール、食堂、寝室のほか、噴水や水槽が飾られています。ライトも大量の天然水晶と宝石を使っています。ドイツ原産のピアノと時計は迎賓館の宝物です』
 と、紹介されています。天然水晶を使った照明器具の1枚が剥がれていた理由も、現地案内のガイドさんが教えてくれました。この建物を管理していた人が1枚だけ剥がしたようでした。ピアノはスタンウェイの銘がありました。ベヒシュタイン、ベーゼンドルファーと並ぶ世界の名品の中でも、トップを占めるピアノです。独逸で発祥し、アメリカにも生産拠点が置かれました。
大きな柱時計は精巧で、今も現役でした。床に置いてありました。定時になると、それぞれ異なった音色を発します。更に説明を続けます。
 『中華人民共和国成立後、1957年、中国の最高指導者毛沢東主席はここで1ヶ月も泊まり、共産党高級幹部の会議を主催しました。また、青島を訪問する外国の使節もよく泊まりました。7、8年前、一般観光客は宿泊できましたが、今は青島市の文化財として保護されています』
 と、現在に至る経緯も紹介されていました。毛沢東は身長が180センチを超える長身でしたから、毛沢東が使ったベッドは、足の部分が50センチほど継ぎ足されていました。
 建物で興味が湧いた一つは、2階にあった温室です。鉄骨を使った建築は、当時としては先駆的だったようです。今でも立派に温室として機能していました。
 黒檀の棚に収めた瑪瑙や水晶等の飾り物のほか、書画を一杯に展示した部屋も見学しました。これは新作で、販売目的でした。飾り棚単位での販売もしますとの、現地説明の方のお話でした。

<桟橋公園>
 続いて公式ホームページからの引用です。まずは桟橋の景観評価からです。
 『桟橋は旧市街の青島湾に位置している青島の最も有名な観光スポットで、青島市のシンボルとも呼ばれています。青島ビールのラベルマークも桟橋の絵を使っています』
 と、最高級の褒め方です。更にその歴史については、清朝時代に遡ります。
 『桟橋の建設は1891年(光緒17年)から始まりました。当時の清朝政府は軍需物資の運送のため、この桟橋を埠頭として建設しました。中国海軍の創始者、李鴻章に桟橋と命名されています。1897年、ドイツの占領後は軍用埠頭として使用され、ドイツ軍は桟橋をさらに沖合へと延ばして、全長は350米となりました。1931年、当時の国民党政府が、また改修して、先端に中国伝統風格の回瀾閣を建造しました、1933年には総延長440米、幅10米となったのです』
 次第と桟橋が伸びて、現在の440mになった経緯が説明されています。私見ですが、浅瀬の青島の沖合に大きな船を接岸するためには、沖合まで桟橋を伸ばす必要があったようです。説明が続きます。
 『桟橋とつながっているのは青島のもっとも人気な繁華街―中山路です。桟橋から小青島の白い灯台と中国海軍博物館の軍艦が見られます。また、桟橋の夕日はとても魅力的です。見学時間は40分前後です。先の回瀾閣には、よく珊瑚などの海洋生物展示をやりますが、入場料5元前後です』
 と、締め括ってありました。今回中国旅行を始めて同行させて頂いた山本さんと、桟橋の先端にある回瀾閣を目指しました。吹き曝しの海上ですから、さすがに少し冷たさを感じました。しかし、耐えられないような寒さのレベルではありませんでした。
 回瀾閣までの桟橋の両脇では、珊瑚や貝などのお土産店に混じって、磁石を使った人形も売られていました。9月の山西省の旅行の際に、騙されてしまった人形でした。山西省旅行の時は、瞬間の動きが面白いので、つい騙されてしまいました。その人形は、透明の紐を使ってコントロールされていました。
約束の場所と時間に全員集合し、次の見学地に向かいました。

<カトリック教会>
 青島案内の公式ホームページは「キリスト教会=基督教堂」と「カトリック教会=天主教堂」を使い分けてありましたから、この小冊子でもその例に倣うこととしました。ホテルの部屋にあった無料観光案内冊子の「青島指南」でも同じ記述でした。公式ホームページからの引用です。
 『青島にはドイツ占領時代に建てられた多くの西洋建築が点在しています。これは青島の一番魅力的な存在です。この天主教堂も有名な建築の一つとして知られています。にぎやかな中山路繁華街に聳えて、とても目立っています』
 と、その立地について説明され、教堂建設の由来については、
 『天主教は19世紀末、ドイツ占領時代にこの地に伝えられました。外来の宗教ですから、最初には中国伝統文化と衝突が発生し、1897年ドイツ宣教師が山東省で暗殺された事件を理由に、ドイツ軍は青島を占領しました。1925年には青島教区が設立され、1932年に、この教堂の建設を開始、1934年に完成しました。塔高は60米、塔上には4.5米の巨大な十字架、正面は青島花崗岩から作られた重厚な建築物となっています』
 と、説明されていました。異教との軋轢が大きな事件となり、青島が独逸に占領されたようです。帝国主義が世界を席巻していた時代です。建物は外光をふんだんに取り入れ、明るい雰囲気を持っていました。中国の現代の若い人にとって、カトリック教は無縁の教えのようです。今は、デートスポットになっていて、係りの方が見回っては、注意をしていました。そのカトリック教会の付近は大掛かりな工事中でした。その理由は、
 『中山路改造工事は完成したら、天主教会の手前には広場が出来上がり、この周辺にはバーの専用地域ができます。現代のおしゃれと歴史の重みがよく融合したら、ふさわしい雰囲気があると思います』
 と、紹介されていました。新しい観光スポットとして生まれ変わる途中でした。

<自由行動、市内散策でデパートへ>
 カトリック教会は、旧市街地を南北に伸びる中山路の東の小高い場所に建っていました。見学を終えた後、西向きに坂を下り、中山路に出ました。ここで、解散し、暫く自由行動となりました。再集合は中山路の西側に面したマクドナルドのお店と決まりました。少し風が出て冷え込みが厳しくなりました。
 中山路を北に歩くとお洒落グッズの専門店、南に下ると百貨店がありました。道路工事や、町並みを撮影した後、南側に歩くことにしました。少し冷え込んできましたから、ビルの中に入るのが一番です。
 5分と歩かない内に、百貨店のビルが見付かりました。早速入店し、地下1階へ移動しました。食料品が置いてあるとの見当でした。その見当は当たっていました。地下にはセルフサービスのお店と、これとは別の専門店がありました。
 専門店と言っても、お茶を買いたかっただけです。烏龍茶と花茶です。買い求める前に、一通り地下のお店を回りました。その中のお店の1つで、目的の品を買い求めました。買物リストを伝票に書いて頂き、それを共通のレジで支払った後で、品物を受取るシステムでした。
 買物後も、少し時間がありましたから、デパートの上の階も見学しました。エレベータではなく、エスカレータに乗って7、8階あるデパートの最上階まで登りました。
 一通り見学した後、約束の集合時間に余裕を持って、マグドナルドのお店に向かいました。

<青島麦酒博物館>
 青島は、青島ビールによって知名度が高まったとも言われています。私も、これまでの中国旅行の際は、決まってチンタオピーチュ(青島麦酒)を注文していました。置いてない場合にだけ、その他のビールか、地ビールでした。
 青島紹介の公式ホームページからの引用です。最初は、青島麦酒の生い立ちと、日本に買収された時代のことです。
 『青島ビール工場は、1903年ドイツ人によって創立された中国一番古いビール工場です。1916年日独戦争で青島を占領した日本人は、青島ビール工場を買収し始め、1945年まで29年間経営しました。ここでは朝日、麒麟麦酒を生産しました』
 1945年は、第二次世界大戦で日本が敗戦した年です。その後、
 『1949年の中国解放後、青島ビール工場は国有になり、初めて世界へ輸出を開始しました。いまの青島ビール集団は年間生産量200万トンにのぼり、中国一です』
 と、今日までの歴史が敷衍されています。ただし年間の生産量は300万トンで、世界48カ国に輸出されていると、現地でお聞きしました。次は、歴史館の説明です。
 『ビール工場見学の時、青島ビール歴史展示、ビール生産過程が見られるだけではなく、一時間前に作られた濁りビールと新鮮な生ビールが飲めます。第一ビール工場は歴史が古くて、1903年の建物が現存しています。2003年青島ビール100年記念のため、2600万元を投資して、青島ビール博物館を成立しました。第二ビール工場は新しく作られた工場で、世界最新の設備を使っています』
 と、続きます。ホームページには2600元と記載してありましたが、2600万元の誤記でしょう。これですと、日本円換算で約4億円ですから、現地の展示内容から見て妥当なようです。
 ところで、青島麦酒博物館見学の感想です。実に良く整備され、分かり易い展示でした。案内人を一切置かず、現地ガイドさんが説明をしてくれました。いい意味で、合理的な、お仕着せの無いシステムでした。
 唯一、係りの方がいたのは出来立ての生ビールを注いでくれたコーナーでした。出来立ての生ビールが、これほど円やかで、きめ細かな泡を持っているとは、改めて青島麦酒の美味しさに脱帽しました。
 100年前の設備を見学用に改造し、最新設備が同じ敷地内に建設されているのも、好感を持てました。最新設備があるからこそ、美味しい出来立てのビールが飲める道理です。最新設備はガラス窓越に眺めただけですが、ステンレスのタンクが使われた、ぴかぴかの工場でした。
 公式ホームページの引用でも記しましたが、2003年に青島ビール工場は、創立100周年を迎えました。それを祝ってのお祝いの品が飾ってありました。通路に沿って展示された品々は、中途半端な数ではありませんでした。
 国内の関係者、団体だけではなく、海外からのお祝いの品々が多くありました。何枚か撮影しましたが、写真編への掲載は割愛しました。次の黒檀の額に納められた写真等です。ホールでセレモニーが行われ、席が空いていませんでしたから、ここで生ビールを飲むのは諦めました。

<泊まったホテルでの結婚式>
 青島麦酒博物館見学の後、一旦ホテルへ戻りました。夕食の時間までは少し時間があったためです。部屋へ戻り、テレビ番組をデジカメに納めながら時間を過ごしました。
 待合せ場所は、ホテルのロビーでした。ソファーに座って暫く待ちましたが、その中に玄関の辺りが騒がしくなってきました。このホテルでの結婚式が、その理由である事が直ぐに分かりました。何度かエレベータに乗ったり、1階のお店を覗き回っている内に、披露宴の式場が、1階のエレベータの奥にある事が分かっていました。
 玄関前に赤絨毯が敷かれ、軍楽隊が奏でる音楽が何度か流れると、新郎、新婦の車がホテルに到着しました。その時を見計らって、大きな音を立てて、赤い紙吹雪が空に舞い上がりました。その光景を眺めた後で、夕食のレストランへ向かいました。

<火鍋の夕食>
 マイクロバスで送って頂いたレストランは、「燕京」のネオンサインの看板がありました。今日のメニューは火鍋料理です。
 中国の火鍋料理で印象が深いのは、黄龍、九寨溝旅行の帰りに立ち寄った重慶での四川風火鍋料理が、強く印象に残っています。20回以上の韓国旅行で辛い料理には慣れていましたし、むしろ大好物になっていましたから、本場の四川料理に感激しました。
 話が逸れついでに、四川料理の話を続けます。上海での創作四川料理も、それ以上に強く印象に残っています。上海旅行の時には毎度立ち寄りました。今でも、その四川料理を食べるために、上海旅行をしたい思いに駆られます。ともかく、上海は私にとって、楽しい思い出が一杯詰まった宝物のようです。
 話を戻します。この日の夕食は、誕生祝の方がお見えになりましたので、お祝いのケーキに蝋燭を点しての晩餐となりました。私は、5年物の紹興酒のボトルを注文して、この夜の晩餐を満喫しました。


  露店の魚市場で
 黄海の恵は露店に溢たり活きし蟹あり貝も魚も

  小魚山公園で
 小魚を干たり小高きその丘に登て望む租界の屋並

  迎賓館で
 継足の毛沢東の寝台は長逗留の居間に猶在り

  桟橋公園で
 黄海の波は静かに治りぬ楼閣建る長き桟橋

  キリスト教会で
 キリストの教はこの地に細々と並ぶ尖塔街に聳る

  青島麦酒博物館で
 呑み慣し青島麦酒まろやかく泡柔に至福喉越す

【旅行時期】2006/12/08~2006/12/10
【エリア】青島
【テーマ】イベント・祭り
【投稿者】旅人のくまさん

途中下車(JR高徳線 板東駅)〜ドイツロマンと四国遍路の町〜(by ダイスラーさん)

第一次世界大戦
休日の合間に何気に時間ができましたので、初詣で大麻比古神社に行こうと思っていたけど、せっかくなので板東(鳴門市)周辺をいろいろ散策してみようと思い、ぶらり旅してみました!

四国88か所のスタートの地であるとともに、第一次世界大戦中にドイツ捕虜兵と地元住民の交流の歴史がある町で、すごく魅力的な散歩を楽しむことができました。

【旅行時期】2009/01/11~2009/01/11
【エリア】鳴門
【テーマ】
【投稿者】ダイスラー

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ - sarajevo - サラエヴォ(by ysk-さん)

第一次世界大戦
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ - サラエヴォは首都であり、1984年には冬季オリンピックが開催された都市である。歴史的にも有名な「サラエヴォ事件(第一次世界大戦のきっかけ)」の場所であり、90年代のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争も記憶に新しい。現在でも危険情報は「全土十分注意してください(2008/12/06)」なので、治安的に問題が無いわけではないと思うが、誰かが行き始めないと何も変わらない。実際に現地に行ってみると、確かに空港でどこかの国の軍隊がいたり、治安維持が行われているように感じたが、殺気立ったような街ではなかった。街中の建物などを見ていると、まだ戦争の傷跡が多く残っており、観光客も隣国の国々に比べる(特にクロアチア)とサラエヴォにはほとんどいなかった。しかしながら、サラエヴォの街には観光資源は豊富で、旧市街の中心地にある「バジチャルシャ」という職人街は、ヨーロッパ(主に西)の街には無いオリエンタル?な雰囲気を持っていた。旅行の時間的な問題で、サラエヴォに長く滞在することができず、事細かに街を見ることができなかったので、また機会があれば是非訪れたい街である・・・

【旅行時期】2008/09/01~2008/09/02
【エリア】サラエヴォ
【テーマ】
【投稿者】ysk-

天国に一番近い島「ニューカレドニア(フランス海外領土)〜ヌーメア」(by Suyo recepcionistaさん)

第一次世界大戦
■□ニューカレドニア(フランス海外領土)□■

○人口:約20万8000人(2002年現在)
●首都:ヌーメア
○人種:メラネシア系が約44%、フランス人を中心としたヨーロッパ系35%、その他。
●言語:公用語はフランス語
○通貨:フレンチ・パシフィック・フラン(CFP)

☆入出国☆
 観光目的での滞在は、30日以内までビザ不要。パスポートの有効残存期間は、3ケ月以上有効なもの。

☆時差☆   
 日本時間より+2時間。(サマータイムは実施していない)

☆祝祭日☆  
 1/1:元旦、3/27:復活祭、3/28:復活祭後の月曜日、5/1:メーデー、5/5:イエス昇天祭、5/8:第二次世界大戦終戦記念日、5/15:聖霊降臨祭、5/16:聖霊降臨祭後の月曜日、7/14:革命記念日、8/15:聖母昇天祭、9/24:ニューカレドニア発見記念日、11/1:諸聖人日、11/11:第一次世界大戦休戦記念日、12/25:クリスマス

☆気候☆   
 年間を通じての平均気温は20から25度前後。1年中心地の良い夏というような感じの亜熱帯気候。

☆概要〜ヌーメア☆
 ニューカレドニアと言えば”海”。白いパウダーサンドのビーチからエメラルドグリーンの海。ターキッシュブルーへと変化する海を求め世界中から多くの人々が訪れる。”プチ・パリ”、”天国に一番近い島”等という愛称があり、その名の通り人々を天国へと導いてくれる。南太平洋では、ニュージーランド、パプアニューギニアに次いで3番目に大きい島。本島周辺には、イル・デ・パン、リフー島、マレ島、ウベア島、ウアン島など美しい白砂のビーチに縁取られた島々が点在している。全長およそ1,600kmにわたるリーフ(堡礁)の輪によって囲まれ、その結果形成されるラグーン(礁湖)は、面積にして24,000km2に及ぶ世界最大規模のサンゴ礁。 ニューカレドニアは、良質のニッケルの産地としても有名で、その埋蔵量は世界第1位といわれている。

【旅行時期】2005/06/22~2005/06/25
【エリア】ヌメア
【テーマ】
【投稿者】Suyo recepcionista

熱海での忘年会、MOA美術館(by 早島 潮さん)

第一次世界大戦
平成20年12月22日(月)
 毎月一回ゴルフをしている大学の寮友達との忘年会の日である。13時に自宅を出て熱海へ向かう。予定の快速電車より早くきた普通電車の車両に乗って時間をかけて行く。車中、介子推に読み耽る。熱海には15時28分到着。熱海駅構内の土産物屋や食堂街を散策して時間を過す。やがて石村、宇津呂夫妻が揃ったのでタクシーで伊藤忠の保養所へ。代金2450円。
 安田、猪原は車で先着していた。夕食時間までカラオケを楽しむ。歌える歌なし、聞き手に専念。三組の夫妻と単身参加の二人合わせて8人で楽しく忘年会の夕食。温泉に浸かり年来の疲れを落とす。
                      
平成20年12月23日(火)
 全員揃ってMOA美術館で本阿弥光悦や尾形光琳の特別展を鑑賞。岡田茂吉の経歴を調べたら世界救世教の創始者であった。出発は新興宗教のお光様。

以下にウイキペデイアで調べた岡田も茂吉の経歴を引用しておく。
以下すべて引用である。

1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)にて誕生[1]。
幼少時、貧しい生活を体験した。また、虚弱体質で次々と病気にかかり、結核にもなり、不治の宣告も受けた。このような体験により、食生活の重要性に気づいた。
日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校に入学。画家を志し、1897年9月に東京美術学校予備ノ課程に入学するも眼の病に侵され中退。
青年期に、商売を行い成功する。だが、過労をきっかけとして多数の病気[2]にかかり入院を3回し、不治の宣告を2回受ける。そのような体験の中で薬物の持つ副作用に気づき、医薬品や医者に頼らない、自然治癒力を重視した生活様式を築き上げていった。
小間物屋「光琳堂」、装飾品卸商「岡田商店」、映画館経営などの事業を行い順調に収益を上げたが、取引先銀行の破産で事業が頓挫。さらに妻が流産や死産を繰り返しており、やっと妊娠した子も5か月で死亡、先妻も死去するなど、不幸が重なる。慈善は好きだが、宗教は根っから嫌いの無神論者であったが、不幸が続くことで人間の力の儚さから救いを求めて色々な宗教の講話を聴き、信仰を勧められるが心が向かなかった。

1920年(大正9年)大本教に入信。大本教のお筆先にある「世直し思想」(キリスト教でいう「最後の審判」、仏教でいう「末法の世」)に心を打たれたことと、歯痛に悩んでいたが詰めていた消毒薬を取ったら歯痛がよくなったなどの経験に基づく「薬が病気の本(もと)ではないか」という自分の考えと、大本の薬毒の教えが一致していたことが入信の理由であった。

1926年(昭和元年)12月のある晩、お腹に光り輝く玉が入るといった神秘体験をし、自己の使命を悟る。
第一次世界大戦後の経済大恐慌の時、株式会社を経営しており、株が一斉に暴落したのに伴い自身の事業も大打撃を受け継続困難に。

1931年(昭和6年)、千葉・鋸山の山頂にて神秘体験を得たのち、岡田式神霊指圧療法(後に浄霊になる)を開始するも、大本教の方針と異なるとの批判を受け、1934年(昭和9年)大本教から離れる。

1935年(昭和10年1月1日)に「大日本観音会」を発会し、地上天国建設を目的として立教を宣言する。麹町山元町に本部を置く。(これが後に世界救世教となる)。同年、10月1日東京都世田谷区上野毛の玉川郷(後に宝山荘)にて、栽培実験と研究を通して自然農法の根本原理や食の重要性について説く。また、将来の美術館構想もこの玉川郷時代にしている。

1936年(昭和11年)官憲の圧迫により、宗教行為と治療行為の分離を迫られ5月15日に「大日本健康協会」創立。宗教とは別に、団体を立ち上げ、2つを両輪とした。一般人や他宗の人たちにも浄霊の恩恵に与ってもらいたいというのが趣旨。今でいう統合医療による療院(病院)構想もしている。1936年9月、警視庁より療術行為禁止令が出て解散する。後年、科学として世に問いたいが、宗教なるが故に浄霊の効果を正しく認識してもらえないことを訴えている。

1944年(昭和19年)戦火が激しくなり、東京から箱根の強羅へと居を移し、神仙郷と名付ける。熱海にも居を構える。

1947年(昭和22年)静岡県熱海で、宗教法人「日本観音教団」として教団を再出発させる。

1948年(昭和23年)無肥料栽培の論文を発表。

1949年(昭和24年)宗教法人「日本五六七教」発足。

1950年(昭和25年)2月4日「日本観音教団」「日本五六七教」を解散し、宗教法人「世界救世(メシヤ)教」が発足。

1952年(昭和27年)箱根美術館を開設。

1953年(昭和28年)『自然農法解説書』など著書を数点出版。尾形光琳の紅白梅図[3]を入手。

1955年(昭和30年)2月8日に野々村仁清の色絵藤花図茶壺[3]を入手。 2月10日に73歳で死去。

1957年(昭和32年)に、岡田茂吉の収集品をもとに、箱根美術館の姉妹館として、熱海美術館が開設された(これは後に「救世熱海美術館」と改称。さらに、現在のMOA美術館へとつながった。)。  引用終わり

モア美術館内の喫茶店でお茶して熱海駅で散会。熱海始発の快速電車に駆け込み乗車成功し15時半には帰宅できた。

【旅行時期】2008/12/22~2008/12/23
【エリア】熱海・伊豆山
【テーマ】温泉・エステ・癒し
【投稿者】早島 潮

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Feb 21 第一次世界大戦敗戦後の閉塞状況の鬱屈感と苛立ちから出発したヒトラーは、自分と祖国の突破口を民族至上主義と国家主義に求め、保守的有力者層の支持と、広く大衆の共感を勝ちとった。 ...

第一次世界大戦中の西部戦線カラー写真だよ!

... 第一次世界大戦中にカラー写真を撮影できたのはフランス軍だけらしいよ。 まさか21世紀の日本人に 立ちションしてる所をカラーで ... 目撃される とは思わなかっただろうねぇ(´∀`*) 第一次世界大戦中の看護婦さん にも萌える? 【関連】 100年前の世界 ...

第一次世界大戦中の西部戦線カラー写真だよ!

高校受験社会科クイズ 歴史 第一次世界大戦

1、第一次世界大戦について世界地図を使いながら、Aさんを中心にクラスで発表をすることになった。発表の文章を読み、以下の文章に回答しなさい。 A「これから第一次世界大戦についてまとめたレポートの発表を行います。まず ...

高校受験社会科クイズ 歴史 第一次世界大戦

フランス最後の第一次世界大戦・従軍兵士が死去

フランス最後の第一次世界大戦・従軍兵士が死去したようです。

フランス最後の第一次世界大戦・従軍兵士が死去

「第一次世界大戦期プロパガンダ・ポスター コレクション」

東京大学大学院情報学環は、 デジタル ・アーカイブ「第一次世界大戦期プロパガンダ・ポスター コレクション」を http://archives.iii.u-tokyo.ac.jp/ で一般公開した。 ☆第一次世界大戦期のポスター661点をデジタル化、東大( ニュース インサイト ...

「第一次世界大戦期プロパガンダ・ポスター コレクション」

第一次世界大戦とは?

第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I, 独: Erster Weltkrieg)は1914年から1918年にかけて戦われた初めての世界規模の大戦争である。ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。
諸国はドイツ・オーストリア・ハンガリー帝国 オーストリア・オスマン帝国 トルコ・ブルガリアの同盟国(英語では中央同盟国と称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシア帝国 ロシアを中心とする連合国(協商国)の二つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカも後に連合国側に立ち参戦した。勃発時は短期戦に終わると見られていた戦争は国家経済を総動員する総力戦となり、従来の常識をはるかに超える物的・人的被害をもたらした。戦争終結時には史上二番目に流血の多い戦争として記録された(史上一位は太平天国の乱)が、この記録は第二次世界大戦によって塗り替えられることになる。900万人以上の兵士が戦死した。また初めて大規模な空爆が行われた。

第一次世界大戦の詳細