第一次世界大戦旅行記
ワルシャワ出張(by cervo-montagnaさん)
10月4日から7日までのポーランド出張。今回は初めて首都ワルシャワでの仕事。いつもはポーランド最北部分、バルト海沿いのグダンスクもしくはKATOWICEという町での仕事が多いのだがグダンスクの展示会の一部がワルシャワに移動したということで、初のワルシャワLANDINGとなった。仕事をいつものように早々と終わらせ、日が暮れる前早速旧市街に散策に出かけることに。
第一次世界大戦前後で独立を2回もなくし、第二次世界大戦ではロマンポランスキーの映画、“ピアニスト”にも出たようにナチス軍に市民はゲットーへ強制連行されそして町は破壊しつくされてしまったが、戦後市民の“建物のヒビの一本まで”というスローガンの下完璧に対戦前の状態へ町を再現したことは有名である。戦後60年しかたっていないということはほとんどの建物は60歳以下というわけだが、戦前の状態を再現しているので、古い建物が新しいと非常に見ごたえのある街だった。
終戦後半世紀弱ソ連邦の強い影響下に置かれるが、旧衛生国の中ではカソリックと民主主義を主張、ワレサ大統領のもとに新の自由を獲得し、近年数年前にEUに加盟したことは記憶に新しい
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ - sarajevo - サラエヴォ(by ysk-さん)
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ - サラエヴォは首都であり、1984年には冬季オリンピックが開催された都市である。歴史的にも有名な「サラエヴォ事件(第一次世界大戦のきっかけ)」の場所であり、90年代のボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争も記憶に新しい。現在でも危険情報は「全土十分注意してください(2008/12/06)」なので、治安的に問題が無いわけではないと思うが、誰かが行き始めないと何も変わらない。実際に現地に行ってみると、確かに空港でどこかの国の軍隊がいたり、治安維持が行われているように感じたが、殺気立ったような街ではなかった。街中の建物などを見ていると、まだ戦争の傷跡が多く残っており、観光客も隣国の国々に比べる(特にクロアチア)とサラエヴォにはほとんどいなかった。しかしながら、サラエヴォの街には観光資源は豊富で、旧市街の中心地にある「バジチャルシア」という職人街は、ヨーロッパ(主に西)の街には無いオリエンタル?な雰囲気を持っていた。旅行の時間的な問題で、サラエヴォに長く滞在することができず、事細かに街を見ることができなかったので、また機会があれば是非訪れたい街である・・・
【旅行時期】2008/09/01~2008/09/02
【エリア】
サラエヴォ
【テーマ】
【投稿者】
ysk-
旅工房スタッフ〜が出会ったパラオ&前回の回答(by 旅工房さん)
☆パラオと日本の国旗がそっくりな理由☆
1994年にパラオはアメリカから独立しました。
アメリカから独立なのに何で星条旗には似ていないのでしょう??
パラオと日本の国旗がそっくりなのは、第一次世界大戦以降、日本統治時代となり、教育、文化、産業などパラオの文化の発展に貢献しました。
第二次世界大戦で日本はパラオでの戦いで、アメリカ軍に「3日で潰す」といわれたが、あの小さな島で3ヶ月も粘りました。
パラオ人としては、日本がそこまでパラオを守ってくれたという感情となったようです。その後、アメリカの統治となりましたが、日本の文化に敬意を表した人が多く、いまでもパラオ人の名前には日本名が存在しています。
そして、アメリカから独立の際、一般公募した国旗は日本の国旗を元にデザインされたものを採用しました。丸の位置が少しずれているのは日本に失礼だと思ったそうです。
なんとも喜ばしいお話ですね。
その他にも日本語をパラオ語として使っている単語もあります。
ダイトウリョウ、デンキバシラ、チチバンドなど
パラオってとてもゆかりの深い場所ですね!
旅工房スタッフのブログも掲載しています。
http://www.tabikobo.com/city/other/post_394.html
カンクンから350kmのコロニアル都市メリダ(by watersportscancunさん)
皆様こんにちは。ウォータースポーツカンクンの店長吉田です。いつも沢山のお問い合わせ/ご利用誠にありがとうございます。ここの所カンクンは快晴!本当に天気の良い日が続いており、遺跡見学やマリーンスポーツなど、弊社ご利用のお客様、皆様全員笑顔が続いています。やはりカンクンは天気がいいのが絶対だな…と改めて感じた店長でした(^^;
さて、そんな折、最近問い合わせがまた増えて来ました弊社取り扱いのパナマ帽の在庫がかなり寂しいことになって来ましたので、今回もメリダまで買い付けに行ってまいりました。ユカタン半島の特産品であるパナマ帽は、折りたためる麦藁帽子みたいなもので、通気性もよく、暑い南国リゾートではかなり重宝します。詳細は弊社のHPをご覧いただきたいのですが、とにかく、この作成には熟練の職人が一ヶ月近くかけて少しずつ編み上げるという手間隙のかかる作業である為、このパナマ帽職人になろうという後人が育たず、職人が減り続けている現状があります。
そこに追い打ちを掛けるように材料となるトキヤ草がここのところの温暖化などの環境変化の凶作続きで、作ろうにも材料がない…。こんな悪循環が市場に出回るパナマ帽の激減につながっており、今回も店長取引先を3軒回りましたが、一軒は在庫ゼロ!という状態でした。売れてしまったのではなく入らないという理由です。
のこり2軒もいつもの半分しか入っておらず、大変な状態であることを改めて痛感した次第です。
因みにカンクンなどでよく見かけるお土産の「PANAMA」と書かれた帽子は紙パナマという偽物です。値段も安いですが、ここでご紹介している「本パナマ」とは違いますのでご注意ください。パナマ帽はこんな感じで単価も高く、数も少なく仕入先の確保も難しい商品であるため、カンクンの普通のお土産屋さんでは売っていません。
なので、もし、本物をご覧になりたい…ほしい!という場合は、また店長あてにお問い合わせ頂きたいのですが、今回のブログのお話は実はパナマ帽のお話ではありません。メリダのお話なのです(前置きが長くなってすみません…)
今回仕入れに行きましたメリダですが、ここはスペインが1542年(ユリウス暦です)に植民地化した際の拠点としてフランシスコ・デ・モンテホによって建設されたコロニアルの町です。カンクンは1960年代に観光開発が始まるまでは単なる漁村でしたが、ここメリダは1500年代(日本だと安土桃山時代で、織田信長や豊臣秀吉が群雄割拠していた戦国時代です)に建設された歴史のある街なので、建造物の見所にあふれております。
カンクンの美しいビーチでのんびりとするのも良いですが、ここメリダの歴史的な街と人口100万人を要するユカタン半島一番の大都市の喧騒を肌で感じることは、メキシコの文化や歴史への造詣を深める意味でもお奨めしたい街の一つです。
さて、そんな歴史のある街ですが、ここメリダは更にもうひとつの歴史があることでも有名な都市です。
時は18世紀半ば、ここに自然に群生するエネケンと呼ばれるサイザル麻が、魔法の繊維として世界中の需要を独占しました。サイザル麻はここユカタン半島でしか採れない為、そのようなモノポリーが起こったわけですが、このおかげでメリダには俄か大金持ちが続出しました。
記録によれば第一次世界大戦の1914年時にはこの繊維の輸出の利益があまりに大きくなり、一ブロック辺りに生活する億万長者の人口比率が世界一になった事もあるというくらいですから、どれだけすごかったかがうかがい知れます。
当然、こうした長者は豪邸を建てます。豪邸と言っても半端ではありません。お金があるわけですから、発想も飛びぬけていて、当時メリダではお金持ちの子弟のフランス留学が流行っていた事もあり、こうした子弟が帰国する際に、自分たちの街にもシャンゼリゼ通りを作ろう!とばかり、メリダの街にシャンゼリゼ通りを作ってしまったのです。
フランスからすべての建材を輸入。ロココ調のお城みたいな御殿がこの通りにずらーーと立ち並びました。そこが現在モンテホ通りと言われるメイン通りです。今も歩くと当時の富豪が建てた豪華なフランス・ロココ調の建造物が当時のまま建ち並んでいます。
今では、そうした建物はメリダの歴史博物館や、銀行や投資会社のオフィスとして使われており、また一部は当時からのファミリーが生活をしている家もあったり、更に、一部は売りに出ていたりします。
当時はどれだけお金がかかったのか想像が出来ないくらいですが、現在売りに出ている建物を見ると、2億〜3億円です。日本やアメリカなら30億くらいしそうな感じですが、そんなものなので、近年はこうしたホテルをアメリカ人などが購入してホテルとして営業していたりしますね。まぁ、建物みたら2億だったら安いなーーと感じると思います(実際に買えるかは別として(汗))
こんな魅力的な街なので、カンクンからちょっと遠いですが、是非リピーターでお越しになる際には足を伸ばしてみるのも面白いと思います。近くにはプログレッソというビーチリゾートがあり、田舎ののんびりとしたビーチを楽しむことも出来ますし、またこのエリアはプウクといわれるマヤ北部低地の遺跡エリアですので、ウシュマル遺跡やジビルチャルトゥン遺跡、サイールやカバー遺跡、そしてマヤパン遺跡など見所も満載です。
そして、メリダのホテルに滞在するなら、是非店長お奨めのメリダ・ハイアット・リージェンシーをご検討ください。ここはメリダでは一番高い建造物なので、夜景などが本当に綺麗ですし、モンテホ通りのすぐ裏なので、朝などは散歩するにも便利です。弊社でもお取り扱いをしていますので、またご相談くださいね(^^)
というわけで、今日はメリダのお話でした!
また書きますね。
店長吉田
インド旅行記? AUG 16 SAT JAIPUR→NEW DELHI(by Le Corbusierさん)
宮殿ホテルのためエレベーターがなく更に、ロビーまで若干階段の上り下りがあるため、チェックアウト時にカバンを運んでもらおうと、フロントに電話したが、一向に取りに来る気配がない。結局、フロントでちょっと怒り気味に再び言ったら、小走りで取りに行った。まあ、インドには悠久の時間が流れているらしいので、そのくらいのことでセカセカしてもしょうがないが。
ホテルを出発し、ジャイプールのシンボル、風の宮殿へ。
かつて宮廷の女性たちが暑い時期、ここで涼みながら町を見下ろしていたという。彫刻を施した正面から見ると大きな建物だが、奥行きが全くなく、ただ、写真を撮るだけの建物。
次の目的地、アンベール城に向かう途中、湖に浮かぶマハラジャの離宮、水の宮殿を車窓から見学。
16世紀に築城が始まったカチワーハ家の王国(アンベール王国)の丘の上にある、巨大なお城、アンベール城へ。
元々ムガル帝国の保護下にあったようですが、ムガル帝国が衰退した後には、大英帝国の保護下に入ったようです。難しい時代に上手く立ち回ることができた凄いマハラジャ一族。
ここは、なんといっても、山のふもとから城内までの象タクシー。以前は客4人+像使い1人の計5人を乗せて1日中、象は働かされていたらしいが、数年前それに怒った象が観光客を振り落とし踏みつけた事件があって以来、乗象人数は客2人+像使い1人の計3名で営業時間は朝8時から10時、象1頭当たり2往復までと決まったらしい。
象に乗る前、記念に木彫りの象の置物を買おうとお土産を売りつける人と交渉したら、はじめ、5個500Rs(1,500円)と言われ。高いし、5個もいらないといって無視していたら、象に乗って歩き始めてからも「いくらなら買う?」としつこく付きまとわれ、象に乗っているのに、楽しくないので、仕方なく1個ならいくらだと聞いたら「1個なら200Rs(600円)」と言われ。「ふざけるなとボケ!」と通じてもいな日本語を言い放ったが、しつこく付きまとわれ、仕方なく1個100Rs(
300円)で購入。負けた…。
私の乗った象はまだ若い象とのことで、前の象を追い越しながら、糞もしていた(笑)
途中で以前、テレビでインド象の調教風景の、象を鎖でつないで数日間、餌も与えずに言うことを聞かせることを思い出し、楽しいはずの象タクシーが象に申し訳気分になってしまった。
アンベール城には立派な何名かの妃の部屋があったが、王様に呼ばれた妃のみ、ご出勤らしく、ただの待合所みたいな場所かと思った。
車に乗り込み一気にデリーへ。
途中、放牧牛の大群に遭遇し、道をふさがれていたがなんとか脱出。この約200kmの道路はいままでになくちゃんと舗装されていた。デリーの町が近づくと、工場が多くなってくる、HONDAの工場もデリー郊外にあり、デリーの街中にはSONYの看板もあったが、思っていたほど、日本企業の看板を見ることはなかった。
デリーまで戻り、世界遺産でもある、クトゥブ・ミーナールとその建造物群へ。
奴隷王朝のスルタンが、ヒンドゥー教徒に勝利した記念の塔とことで、以前は100mあったが飛行機はぶつかり現在は72.5m。そして、以前は塔に登ることが出来たらしいが、遠足で来ていた子供たちがふざけていて、将棋倒しのように階段をころび死者が出てから、登れなくなったとのこと。
ここに残っている建造物群の鉄柱はグプタ時代(4世紀)に造られてとの事。4世紀のものが錆びずに残っているなんてすばらしい。
そして、ランチにオシャレなモダンなレストランでインド最後のカレー。
チキンカレー、チーズカレー、ほうれん草カレーなどどれもこれも美味しかった。
世界遺産のタージマハルのモデルとなった建物、フマユーン廟へ。
イスラム建築の代表らしいが、タージマハルを見た後だと、いまいち感動はなかった。
次に第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑のインド門を遠めから見学し、ガンディーの記念碑がある、ラージガードへ。ガンジー自体は聖なる川に流されここには、遺灰はないがインド独立の神様には変わりなく、私が訪れた日は前日の8月15日がインドの独立記念日だったため、記念に日はたくさんの花で装飾されていた。
沢山の観光も終わり、日本に帰るため、デリー国際空港へ。
ガイドさんは私を送ったその足でまた到着ロビーに来る日本人を出迎え、明日また200km先のジャイプール、アグラ、デリーとまわるらしい(凄!)
エアインディアは3時間にチェックインが必要らしく、かなり早く空港に到着。
チェックイン時、込み具合を聞いたら、満席だとのことだったので、通路側の席を確保。
デューティーフリーでも特に欲しいものもなく、お腹が減ったのでチキンサンドウィッチを購入して食べたら、カレー味だった(笑)
出発時間、午後8時50分(日本時間午前0時20分時差3時間半)の約30前。やっと搭乗開始。待ちくたびれた。
約1時間前に出発したJALは日本語案内もあったが、エアインディアは何も案内もなく搭乗が始まっていた。
第一次世界大戦に関する質問
第一次世界大戦
第一次世界大戦第一次世界大戦は、第二次世界大戦が起こる前から、第一次世界大戦という名前だったのですか?第二次大戦前、一つしかない大戦を第一次と最初からよんでいたのでしょうか?

カテゴリ:教養と学問、サイエンス>歴史
第一次世界大戦
第一次世界大戦第一次世界大戦で、なぜ総力戦体制が出現したのですか?

カテゴリ:教養と学問、サイエンス>歴史
第一次世界大戦について。。。
第一次世界大戦について。。。第一次世界大戦の模様を,わかりやすく説明してくださいませんか?三国同盟と三国協商とかはわかるんですけど…ドイツ革命とかロシア革命とかがいまいちわからないです…。。。誰か詳しい方お願いします。

カテゴリ:教養と学問、サイエンス>歴史
第一次世界大戦と第二次世界大戦
第一次世界大戦と第二次世界大戦第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦場はどっちのが広いでしょうか。戦死者数では第二次世界大戦の方が多いみたいですが、戦場はどっちの方が広いのかよくわかりません。第二次世界大戦の方が広いような気もしますが第一次世界大戦の戦場にはアフリカや中東が入ってたりするところをみるとどっちが広いのかわかりません。また具体的に規模はどちらの方が大きいでしょうか?

カテゴリ:教養と学問、サイエンス>歴史
第一次世界大戦について質問です。
第一次世界大戦について質問です。第一次世界大戦では、新兵器として毒ガスや戦車などを使っていたらしいのですが、そのとき主に歩兵に配備されていた銃はどのような銃なのでしょうか。ムービーなどを見るとボルトアクション式の銃のような気がしますが^^;詳しく説明できる方教えてください。お願いします。

カテゴリ:教養と学問、サイエンス>歴史>世界史
第一次世界大戦関連エントリー
漱石、第一次世界大戦、トライチケ(Treitschke)
「 個人の場合でも唯喧嘩に強いのは自慢にならない。徒(〔いたず〕)らに他(ひと)を傷(あや)める丈である。国と国とも同じ事(こと)で、単に勝つ見込があるからと云つて、妄(〔みだ〕)りに干戈(〔かんか〕)を動かされては近所が迷惑する丈である。 ...

[メモ]第一次世界大戦 ドイツ
■ [ メモ ]第一次世界大戦 ドイツ 1917年に始まった第一次世界大戦は、シュリーフェンプランの挫折を機に、 泥沼の膠着状態に陥っていた。 そうして、国内資源、国民のすべてを投入する事も辞さない「総力戦」体制へと移行する。 ...
![[メモ]第一次世界大戦 ドイツ](http://www.ojipel.com/styles/images/more.jpg)
第一次世界大戦とベルサイユ条約
... いくのいよ = 1914年 だいいちじ = 第一次世界大戦 いくのいや = 1918年 とおくとおく = 1919年 ベルサイユ = ベルサイユ条約 ◆1914年、サラエボ事件を機に第一次世界大戦が起こり、1918年に終結しました。翌19年 ...

第一次世界大戦中の西部戦線カラー写真だよ!
... 第一次世界大戦中にカラー写真を撮影できたのはフランス軍だけらしいよ。 まさか21世紀の日本人に 立ちションしてる所をカラーで ... 目撃される とは思わなかっただろうねぇ(´∀`*) 第一次世界大戦中の看護婦さん にも萌える? 【関連】 100年前の世界 ...

BBCビデオ:第一次世界大戦終結90周年慰霊式典(欧州時間1 ...
... 強制的?に花輪を取り上げて彼に代わって祭壇に捧げることをしなかった、兵士や関係者、参列者には頭が下がった。(止め) さぞや万感こもる場面だったに違いない。 タグ: 第一次世界大戦終結90周年慰霊式典

第一次世界大戦とは?
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英: World War I, 独: Erster Weltkrieg)は1914年から1918年にかけて戦われた初めての世界規模の大戦争である。ヨーロッパが主戦場となったが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦した。
諸国はドイツ・オーストリア・ハンガリー帝国 オーストリア・オスマン帝国 トルコ・ブルガリアの同盟国(英語では中央同盟国と称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシア帝国 ロシアを中心とする連合国(協商国)の二つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカも後に連合国側に立ち参戦した。勃発時は短期戦に終わると見られていた戦争は国家経済を総動員する総力戦となり、従来の常識をはるかに超える物的・人的被害をもたらした。戦争終結時には史上二番目に流血の多い戦争として記録された(史上一位は太平天国の乱)が、この記録は第二次世界大戦によって塗り替えられることになる。900万人以上の兵士が戦死した。また初めて大規模な空爆が行われた。
第一次世界大戦の詳細