人口旅行記

二十歳のヒッチハイカー(by ヒマジンさん)

人口
1979年3月16日〜1980年3月16日まで、学校を休学して
海外旅行に行きました。成田空港が開港した翌年、
多くの日本人が海外旅行に行く頃でした。表紙の写真は当時、
入部していた大学のESSクラブのメンバーと両親です。
京都駅まで見送りに来てもらいました。
当初の目的地は、アメリカ合衆国でした。ロサンゼルス、
サンフランシスコ、シアトルと現地の人々の家に泊めて
もらい旅行しました(写真-?)。英会話を学ぶために、
大学の語学教室に通いました。現地の人に紹介文を
書いてもらい、無料で授業を受けました(写-??)。
20日位、自転車で35マイル(56km)の通学距離でした。
ある日、車とぶつかり、自転車が壊れてしまいました。
ぶつけた自動車の人と一緒に、泊めてもらってた家に帰ると、家族の人が、「ノリオ、身体は大丈夫か」と最初に私の体の事を心配してくれました。貸してもらってた自転車の事より、自分の事を最初に気にかけてくれました。とてもうれしかったです。ここで、多くの国の人々と知り合いになりました。3ヶ月のビザが切れ、カナダのバンクーバーに行きました。ここでは、
ビクトリア島(写-?)の美しさと、10時になっても明るく、
子供たちがサッカーをして遊んでた風景を思い出します。
1ヶ月後、バンフ・ジャスパー(写-?)を通過し、
ユタ州のソルトレイクシティに行きました。ソルトレイクでは、イエローストーン国立公園で初めてウォータースキー(写-?)
をした事、誕生日に友達にケーキを作ってもらった事(写-?)、初めての乗馬(写-?)、そして多くの友達が出来ました
(写-??)。ソルトレイクを出発し、オマハ、シカゴ
そして、メイン州に10日程、滞在しました。
メイン州の図書館で日本文学の棚の所にいた女性と
知り合いました。旦那さんが精神科の医者で、世界を診療し
ながら旅行しているとの事でした(写-?)。一緒に旦那さん
が勤めている精神病院(写-?)に行き、そこで2日程、
泊まり、いろんな患者さんといろんな面白い話をしました。
キリスト、ヒットラーと話した事を覚えています。
再度ビザが切れたので、カナダのノバスコシアという、
東の端の半島に行きました。非常に景色の綺麗な所でした。
ここでは、陶芸家のアメリカ人としっかり者の日本人女性と
子供2人の家に泊めてもらいました。一人の子供の名前は
「海」君でした(写-?)。ここでの想い出は、夜中、
非常にお腹がすき、家の人に黙って、冷蔵庫の、
ベーコンを食べ、お腹が痛くなり、一晩中一人で
トイレで苦しんでました。翌日、わかったのですが、
前日の夕方、近所のパーティがあり、そこで出た、きのこが悪く、何人か食あたりになったようです。ノバスコシアを出発し、
ボストンに行きました。ボストンでいつもの様に、
女性に泊めてもらう為に声をかけました。すると、
すぐに快諾してもらいました。彼女と一緒について行くと
教会に連れていかれました。3日間、教義を聞き、
少ない食事だっと事もあり、頭がボーッとしていました。
係りの人に、何回か「日本語の分かる人から教義を受けますか?」と聞かれましたが、教義に興味がなかったので
断りました。4日目に、皆で町に出て仲間を増やしに行くと
言われました。最初に3日間だけ泊めてもらう約束だっので、
「私は出て行きます」と言いました。すると係りの人が、
「ただで、泊めて貰って、食事したのだから、
仲間を集めるか、再度、教義を聞くか」と詰問調で
言ってきました。最初に会った女性(リンダ・写-?))を
呼んでもらい、「最初の約束の話をしました」しばらく話をし、結局、1週間、皿洗いをする事で合意しました。
さらに1週間、寝床と食事を得ることができました。
帰国後、その教会は統一教会といって、あまり良い団体
ではないと聞きました。しかし、皿洗いをしながら、
彼等達と話をして、ほとんどの人は、真剣に教義を勉強し、
一人でも多くの人に、仲間になってもらう為に、
一生懸命な若者だと感じました。マインドコントロールかも
しれませんが?。ボストンの次に、ニュージャージーで
ドイツ系の家族の家に泊まらせてもらいました(写-?)。
日本を出て9ケ月程過ぎ、日本食が食べたくなり、
家族の人にカレーライスを、ご馳走しますと食材のお金をもらい、オリエンタルショップで買い物をしました。
初めてカレーを作りました(写-?)。カレーパウダーを
いくら入れても、日本で食べたようにトロリとならず、
試食すると非常に辛くなってました。肉を4kgとか、
いろんな食材を、お金を出してもらって作ったので、
家族の人には、「これが日本のカレーだと」食べてもらい
ました。皆、美味しいけれど、口に合わないと、
少ししか食べませんでした。私はかなり無理をして、
1皿だけ食べました。翌日、近くの大学の英語教室に行き、
日本から海外出張で旦那さんに付いて来ている奥さん達に
作り方を聞きました(写-?)。カレーのルーを
使わなければいけない事を教わりました。
ニュージャージーからニューヨークまでは、
車で1時間程なので、家族の娘さんと一緒に、
自由の女神の島等に行きました(写-?)。
ニューヨークでも1週間程、泊めてもらいました。
マンハッタンのワールドトレードセンター(写-?)、
ハーレム、夜の街等、いろんな面白いものを見、
体験しました。次に、ワシントンD.C.に行き、
役所に勤めている人の家に泊めてもらいました。
ワシントンD.C.は、町並みが綺麗で、ほとんどの
公共建物が無料で入館できました。ワシントンメモリアル、
ホワイトハウス、スミソニアン、アーリントン墓地、
FBI,そしてロッキーバルボアと同じように階段を
駆け上がり、手を掲げ、リンカーン像に挨拶しました(写-20,21)。そして、そろそろ3ケ月のビザの有効期限が切れるので、
メキシコに行こうと考えました。しかし、当時、
アメリカ南部は、ヒッチハイカーに厳しく、
刑務所に入れられた旅行者がいると聞きました。
メキシコに行くには、南部を通らなければならず
悩んでいる時に、ニューヨークからロンドンまで、
キャンセル待ちで片道3万円で行ける飛行会社があると聞き、
ヨーロッパに行く事にしました。ロンドンに行く前に、
冬のヨーロッパに行くので、野宿もつらいだろうと思い、
電車の中で寝れると思い、鉄道のユーレル・ユーロパス
(2ケ月)を買いました。ロンドンに着いて、
一番驚いたのは、人口の半分がインド人だった事です。
1週間程滞在し、ドーバー海峡を渡りパリに行きました。
パリの想い出は、シャンゼリデ通りで、
トイレに行きたくなり、公衆便所に入ろうとした時に、
カウンターの後ろにおばさんが座っていて、
カウンターに1フラン紙幣が、何枚か置いてありました。
仕方なく1フランを払いました。用を済ませて出てくる
ときにカウンターの中をのぞくと、小銭が沢山ありました。
納得がいかなかったけれど、仕方ないと思い歩いていると、カップラーメンの「どん兵衛」が600円(何フランか忘れました)
で売っていました(写-22)。ヨーロッパでは夜、
電車の中で一泊し、着いた街で昼間に散策し、又、夜、
電車の中で一泊しました。電車でスペインのマドリッドに
行き、さらにポルトガルのリスボンまで行きました(写-23)。
リスボンの港で、醤油を付けた焼き魚が、
すごく良い匂いがしたのを憶えています。ポルトガルの
南部の町で電車を降りてしばらく歩くと海岸にでました。
冬の寒いヨーロッパ旅行の途中で、明るい海岸と、
広大な大西洋に感激しました(写-24)。しかし、
いくら南下しても寒く、もっと暖かい所に行こうと、
アフリカ大陸に行くことにしました。ジブラルタル海峡を
渡り(写-25)、テュアナという街(写-26)に着くと、
沢山の子供たちが、私の持っている物と、子供たちの
持っている物と交換しようと集まって来ました。
私の穴の開いた、ジーパンでも良いとの話でした。
そこに、バイクに乗ったおじさんが来て、
「家に泊めてやるから、乗れ」と誘ってくれました。
アフリカの家は、どんな家なのか知りたいのと、
空腹だったので、「メルシー」とだけ言い、
バイクに乗せてもらいました。彼の家は、土で造った家で、
8人位で住んでいました。パンのような物を食べさせてもらい
寝ました。翌日、家の子供たちが来て、私の持ち物と交換
してくれとやってきました。フランス語はほとんど分らないので、身振りで「皆で散歩に行こう」と誘い、家の周りの
丘を遊びながら過ごしました。その家を出発する時に、
おじさんに、ボールペンとメモ用紙をあげました。おじさんは、すごく喜んでくれました。モロッコでは紙は、貴重品でした。
国によって紙の質・量が変わっていました。
旅行中に日本から履いてきた靴の底が破れ、
パンフレットなどを口底に敷き歩いていました。
アメリカでは、パンフレット等の厚紙が簡単に手に入り、
底に敷いて1週間位、取り替えなくても大丈夫でした。スペイン・イタリア・ポルトガルでは薄い、ちらし等しか、もらえず、
1日〜2日位で取り替えてました。モロッコでは、
紙そのものが入手しづらく、あってもすぐにぼろぼろになり、
2〜3時間歩くと取り替える必要がありました。
マラケシュでは、ヨーロッパとは、まったく異なる町並み
、モスク(イスラムの教会・写-27)
、人々と出会いました。しかし、昼間は暖かくても夜は
すごく寒くなり、野宿よりもヨーロッパに戻り、
電車の中で寝たほうが良いと思い北上しました。
途中、カサブランカでは、高い建物が多い事に驚き、
知り合った人のマンションの部屋(20階位)から見た、
大西洋は雄大でした。スペインに戻り、グラナダに1週間程、
滞在しました。おばあさんと孫が住んでいる、
コテージ風の所に泊めてもらいました(写-28)。
アルハンブラ宮殿はとても美しかったです。
グラナダを出発する日に、同じ泊り客だった男性から
バルセロナに住んでいる友人を紹介してもらいました。
そして今回、このブログを書く動機となったバルセロナに
向かいました。途中の電車のなかで、チリから来た、
2人の女性と知り合いになりました。バルセロナに着くと、
まず、紹介してもらった人のところに行き、グラナダで
書いてもらった紹介文を渡しました。
彼女(エルミニア)は、私の宿泊を即座に
快諾してくれました。エルミニアの彼(マニュエル)が、
オーストリアから遊びに来ていて、
「バルセロナの町を案内するから、一緒に行こう」と
言ってくれました。でも、その日の夕方、電車の中で
知り合ったチリの女性と会う約束をしていて、
「日本人の友人と市内観光するから今日は行けない」と
マニュエルに嘘をつき、チリ人との集合場所に行きました。
チリの女性達と街中を歩いていると、
男性2人が話しかけてきました。彼らとチリ女性の一人が、
スペイン語で親しそうに話をし、皆で一緒に行動しようと
言い出しました。私は、彼らの容姿とスペイン語力に
嫉妬を感じ、「3人だけで遊びに行こう」と反対
したのですが、一人の彼女が「じゃ、ノリオ1人で
遊びに行ったら」と言いました。
私が好意を持っていた女性(パトレシア)は、
反対したのですが、もう一人の女性が、彼らとさっさと
歩き出しました(写-29)。結局、私1人が取り残されました。
その夜、失恋(私が勝手に恋をしたと思っていただけです)の
痛手で、落ち込んだ状態で、エルミニアの部屋に戻りました。
エルミニア達は、私を歓待する為に料理を作り待っていて
くれました。私が昼間と比べ、元気がないので、
具合が悪いのか心配してくれました。
私は嘘をついた事と失恋した事を話しました。すると、マニュエルが、私の昼間の彼らに対する態度、言葉がだめである事、
女性の口説き方を一生懸命に教えてくれました。
スペイン語がほとんど理解できませんでしたが、
自分が嘘を言って、マニュエルの誘いを断ったことを、
怒られると思っていたのに、私を慰めてくれた事に、
非常に感激しながら聞いていました。夕食後、彼らが、
私の為に女の子を誘って遊びに行こうと言ってくれました
(写-30)。一緒にディスコに行った女の子の中に、
14歳のアンナという女性がいました。もっと長い間、
滞在したかったのですが、バルセロナを出発しました。
そして、イタリアに行きました。シチリア等は景色も綺麗で、人々が親しみやすく、親切でした。後で、
マフィアの里であると聞き驚きました。ナポリでは、
泊めてもらっていた女性に、旅行中、良く使った言葉、
「私は、空手を習っていて、黒帯のタイトルを持っている」
と話しました(写-31)。実際は、高校の体育の授業で、
柔道の授業があったくらいです。この話を聞いて、
彼女が「私の彼も空手を習っているので、
日本人の空手家と会うと喜ぶわ」と、私が、反対するのに、
彼を家に呼びました。彼の身長は2m近くあったと思います。
体格も丈夫そうな中南米系の男性でした。彼が試合を
したいと言い出しました。試合をすると、
空手を知らない事がすぐばれるか、怪我、最悪は殺される
と思いました。とっさに、「道場、以外で試合をすると、
黒帯を取り上げられる」と以前、聞いた話を、
イタリア語で話しました。その時は、イタリア語が自然と
口から出てきました。その話を聞いて、彼がすごく
感心してくれました。その夜の夕食は豪華でした。
いつもなら、泊めてもらった最初の夜は、空手、歌舞伎の話をし、明日も泊めてくれたらカレーを作ってあげると、
1週間位泊めてもらうのですが、さすがに、その夜は、
早く朝になり出て行くことばかり考えていました。
鉄道パスの期限も切れるので、フランス、ドーバーを渡り、
イギリスのヒースロー空港でキャンセル待ちをし、
ニューヨークに行きました。ニューヨークから、
ヒッチハイクでロサンゼルスまで行く予定でしたが、
疲れもあり、グレイハンド・バスで旅する事にしました。
途中、ユタ州のソルトレイクシティに寄り、
前回の滞在中に友達になった、女子高生の家に2週間程、
泊めてもらいました。高校生達と、釣り、ハイキング、
そして、初めての射撃を体験しました(写-32)。
そしてロスからハワイに行き、日本を出発して丁度、
1年になる日まで滞在しました。ハワイでは
モーターボートでカジキ釣りに連れて行って
もらいましたが、残念ながら何も釣れませんでした。
約2週間滞在し、黒く焼けて(写-32)
成田にランディングしました。当時は、無事に着陸すると、
自然と拍手が起こりました。この旅で、800枚の写真を撮り、
毎日、日記を書き、2週間に1度は両親に手紙を送りました。
旅行費用は、成田⇔ロスの往復航空券18万円を日本で支払い、
旅行中、持ち歩いた、トラベラーチェック90万円が、帰国後、
換金すると70万円残っていました。たまたま、
出発時は1ドル150円だったのが、1ドル200円になり
ラッキーでした。約38万円で、かけがえのない体験、
多くの友人、そして自分自身の成長と自信をつける事が
出来ました。もちろん、私を泊めてくれた人々、
食べ物をくれた人々、ヒッチハイクさせてくれた人々、
話をした全ての人々の親切とパワーをもらった事で、
成し遂げられた旅でした。
*次号の20年後の再会も、是非一読下さい。


【旅行時期】1979/03/16~1980/03/16
【エリア】カンザスシティ
【テーマ】プチ留学・カルチャー体験
【投稿者】ヒマジン

13世紀の古城ホテルAshford Castle 〜コング(by kumさん)

人口
コングは人口197人(by ミシュラン)という小さな町。

この町を有名にしているのは映画「静かなる男」と五つ星古城ホテルのアシュフォード・キャッスル。

「静かなる男」を見たことがなかった私の目的は当然アシュフォード・キャッスルに泊まること。

というわけで、女子の永遠の憧れ(?)、古城ホテルに泊まってきました♪ 

…ええ、一人で(; ̄ー ̄川

【旅行時期】2009/02/15~2009/02/16
【エリア】コング
【テーマ】古城・寺院めぐり
【投稿者】kum

フランスの田舎:ドライブ旅行記 -25- 〜カルカッソンヌ: 朝昼編〜(by ももであさん)

人口
周囲3kmに渡り、巨大な城壁を張り巡らせた最強の城塞都市カルカッソンヌ(Carcassonne)
前編(夕夜編)で紹介したように、7世紀前半の支配者ダマ・カルカスは、カール大帝の攻略
を5年にも渡り耐え忍び、ついに撤退させることに成功した。

時は経て中世1200年代。カルカッソンヌはカタリ派の拠点として大いに栄えていた。
しかし彼らはカトリックから異端と見なされ、アルビジョワ十字軍の重大な標的でもあった。
1209年十字軍は、カルカッソンヌを取り囲む。果たして今回も堪え忍べるか。。

結果、最強だったはずのカルカッソンヌが、僅か7日で明け渡すこととなる。何故か?

当時カルカッソンヌは、十字軍を恐れ避難してきたカタリ派住民で人口過密となっていた。
そこで十字軍が労せず水を絶つと、カルカッソンヌは僅か7日で降伏したという訳

今や年間300万人の観光客が訪れ、フランスではモンサン・ミッシェルに次ぐ一大観光地
その一人として、再び中世へタイプスリップ。

【旅行時期】2008/08/28~2008/08/28
【エリア】カルカソンヌ
【テーマ】ドライブ
【投稿者】ももであ

キエフ(Kiev)の週末 【1】(by hirootaniさん)

人口
今日は、ウクライナの首都キエフでの仕事。相変わらず天気がよい。30度前後か。日頃天気の悪いブラッセルで暮らしていると、こうゆう天気がうらやましい。

仕事は3時過ぎに終了。一緒に来ていた仲間は空港に向った。自分は、プライベートで予約していたドニプロホテルへ。このホテルは、ソビエト時代の高級ホテル。ところが部屋に入ってびっくり。ソビエト時代そのままのようなので、現在では2つ星程度。冷房も冷蔵庫もない。こんなくらいならば、昨日のSASホテルの値段を聞いて連泊しておけばよかったと後悔。値段は休日価格の2泊で209ユーロと破格だが、SASはどうだったんだろう。場所がネザレージュノスティ(独立)広場に近いので、どこにいくにも便利なのだが・・・。

キエフは1500年余の歴史を数える東スラブ随一の古都。「ルーシ(東スラブ)諸都市の母」と称えられ、現在もウクライナの首都として人口300万近い大都市。


【旅行時期】2008/08/22~2008/08/22
【エリア】キエフ
【テーマ】
【投稿者】hirootani

ローテンブルグ 一年中クリスマスの街(by misa246raさん)

人口
雪が積もるローテンブルグの街並みはまるで、絵本の中のようです。中世の街並みは、人口一万人ほどの街にも関わらず、観光客は年間300万人も訪れるそうです。それほど魅力的なかわいらしい街です。

【旅行時期】2008/03/~2008/04/
【エリア】ローテンブルク
【テーマ】
【投稿者】misa246ra

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人口とは?

人口(じんこう)とは、ある人間集団の総体を指す概念であり、またその集団を構成する人間の総数を指す統計上の概念である。
一般的には、国家や特定の地域にいる集団について用いられる。(世界の人口、日本の人口、県の人口、など。)
2004年9月の時点で、世界人口は、63億9003万人である。(国際連合 国連人口部)
2006年2月、世界人口65億人を突破。
住民基本台帳に基づく2005年3月末の時点では、日本の人口は1億2686万9397人であった。
日本でもっとも人口の多い都道府県は東京都、市では横浜市、町では愛知県三好町 (愛知県) 三好町、村では岩手県滝沢村である。東京23区を1都市と考えれば日本最大の人口を有する都市であり、都下、近県など周辺地域を含む大都市圏では世界第1位の人口を抱える。

人口の詳細