外交旅行記
愛すべきイタリア、その1(by Stefanoさん)
第1章 イタリアへ到着
私がマルコポーロ、ベネチア空港へ降り立ったのは秋も深まる11月中旬のある金曜日の夕暮れでした。
イタリアの仲間が手配してくれたハイヤーの出迎えを受け30分ほどでベネチア郊外の小さな町の工業団地にある工場に着きました。私はベネチアにある会社へ単身で赴任することになったのです。
当面の着替えや生活用品をぎっしり詰めこんだスーツケースをハイヤーから降ろし会社の事務所へ入りました。仲間の一人が出迎えてくれました。その顔は「とうとう来たか」という表情でした。私は以前から仕事で何度もイタリアへ来ていたのですが、今回は赴任ということで短期出張とは違っていました。じっくり根をおろして住みつこうというのです。
何度も来ていたイタリアには特に違和感はなかったのですが、出張の1〜2週間の滞在ではなく、長期間滞在して生活するとなると、今までと同じはずはないと思っていました。
さて私の感覚、感動が新鮮なうちに、イタリアでの数々の体験談を書いてみたくなりました。
第2章 イタリアの友人
私の一番親しい友人でイタリアの会社の責任者を努めるその男は「Gal....」という名前でとてもダンディな50歳半ばのイタリア紳士です。ここでは親しみを込めて「ガリちゃん」と呼びます。いかつい迫力のある顔立ちをしていて、以前から続けている口ひげと真中で緩やかに分けた髪には最近は随分白いものが混じるようになってきています。彼とは15年来の付き合いでお互いの性格や考え方はよくわかっています。イタリア人の例にもれず、彼はとても明るいのですが、その部下が「あの人はドイツ人みたいだ」と評するように厳格で几帳面なところも持ち合わせています。本人は、自分は北イタリアの生まれなのでドイツやオーストリアの血が混じっていると言っています。日本人の持つ、明るいノー天気なイタリア人のイメージはナポリに代表される南イタリアのものかも知れません。実際、工業生産などの工場はトリノ市など北イタリアに集中しています。南イタリアの人は、そのルーツをスペインなど典型的なラテン人種としていると言われ、人生を楽しむのを優先するので日本的な時間厳守、約束厳守、計画厳守というような工業生産をするには適していないようです。
ガリちゃんが机の上に散らばった書類を整理しパソコンの電源を切り、出かける準備をします。私達は一緒に事務所の前の駐車場へ向かいました。そこにはイタリア製の白い小型車が停まっていました。イタリア唯一の自動車メーカー、フィアットのものです。フィアットはFIATと綴り、Fabbrica(工場)、 Italiano(イタリアの)、 Automobili(自動車)、 Torino(トリノ)の頭文字をとったもので、トリノ市のイタリア自動車メーカーという意味です。どうです、あたしは何でも知ってるっしょ?
さてその小型フィアットは私が当面乗るために借りてくれたレンタカーです。私のために新しく購入してくれた車が届くまでこれを使ってくれということでした。ガリちゃんが、「ホイ」と言って私に車のキーを手渡してくれました。これからお前のアパートへ行くから俺の車について来いや、と言うのです。私はイタリアへは何度も来ていましたが自分で車を運転したことはありません。その時は日が暮れて、すっかり暗くなりライトをつけないと運転できません。
「ゲッ、ちょっと待て、俺はイタリアで車を運転したことはないゾ」と言うまもなく彼は自分の車に乗りこみ既にエンジンをかけスタートオッケーの状態です。日本から見ると、イタリアでの運転は、まず左ハンドル、右側通行という大きな違いがあります。そのうえ全く道も分からない。その車はおまけにギアシフトはマニュアルです。私は日本でもマニュアルギアシフトの車に乗っていたのでその点は問題なし、しかし、そのほかは日本とは感覚が全く反対です。
「ガリちゃん、ちょっと待ってよ」と言おうと思ったときは彼の車は既にゲートを出ようとしていました。動転です。日本のギャグで「動転、どうてん、同点決勝」というのがあったのを思い出しました。しかし同点決勝なんぞしている場合ではありません。まずキーを差込んでクラッチを踏み込みアクセルペダルを軽く踏み、エンジンキーを回しました。出口ゲートの近くでガリちゃんが、「行くぞぉ」という顔でこちらを見ています。「ま、いっかっ!」という感じで私は車をスタートさせます。しかしエンジンがブーブーいうだけで動きません。ゆっくりクラッチを離すと車はやっとゆっくり動き始めました。ガリちゃんの車のすぐ後ろまで着けます。ガリちゃんは一気に車を発進させました。でもいつもはシューマッハのようにぶっ飛ばすガリちゃんもさすがに今日はゆっくり走ってくれます。
ヨーロッパの国では日本にはないロータリー式の交差点がたくさんあります。道路が十字に交差するところでも信号機がついていなくて、真ん中の丸い空間に沿ってぐるぐる回転するロータリーになっているのです。そのロータリーへ突っ込んでから時計回りと反対方向にぐるぐる回りながら自分の行きたい方向の道へ来たらそのロータリーから飛び出すのです。ロータリーの中を回っている車と、外から入って来る車が交差しますが、慣れないに日本人にはどちらが優先なのかよく分からないのでうろたえます。また同点決勝です。ついつい肩に力がはいりハンドルにしがみつき身体を乗り出し、額がフロントガラスに当たりそうになります。方向指示のウィンカーを出したつもりなのにワイパーが回り始めます。イタリアの車はウィンカーとワイパーのレバーが日本の車と反対に配置されています。夏でもないのに額にうっすらと汗をにじませながらそれでも無事、車は郊外のアパートまで着きました。
「どうだ、道は覚えられたか?」
とガリちゃん。
「全然わからん!」
と私。
「月曜日からは今日来た道の逆を来れば会社へ着くよ」
とガリちゃん。
「わからんと言っとるだろうが!」
と私。
「月曜日の朝は俺がここへ来てやるから、また会社まで追いてくればいいよ」
とガリちゃん。
濃い茶色のペンキを塗った鉄製のアパートの門を入ったあとガリちゃんはその建物の裏手へ廻りました。車から降ろした大きなスーツケースを門のところに置いたまま私はその後に続きました。裏手にある部屋のドアをガリちゃんがノックするとイタリア人のおばさんが顔を出しました。イタリアだからイタリア人おばさんがいてもおかしくないか、などと思いながら私はことの成り行きを見守っていました。そのイタリア人おばさんはアパートの管理人をしているジョバンナさんでした。金髪にグレーが混じった短い髪で、顔も身体もコロコロしていて可愛くて、とても人のよさそうな見るからに典型的なイタリア人おばさんです。歳は60ちょっと過ぎと言う感じ。実は前回私がイタリアへ来たとき私が住むことになるこのアパートの管理人のジョバンナおばさんには一度会っていました。『ボナセーラ』とイタリア式の‘今晩は’の言葉を交わしお互いのホッペを左側から交互にくっつけ、チュッチュッとキスをしながらの挨拶です。私がボナセーラ(今晩は)と、イタリア語を喋ったので、ジョバンナおばさんは私がイタリア語を話せるようになったと思ったのか、べらべらと訳のわからないイタリア語でまくしたてます。ノンカピート(わかりません)と言うと、怪訝そうな顔をしてやっとジョバンナおばさんの機関銃は止まりました。
ガリちゃんが、「彼が今晩イタリアに着いて、これからここに住むから宜しく」というようなことを言っています。ガリちゃんが本当にそう言ったかどうか全くわかりませんが、状況からみて、そう言っているに違いありません。私は感が鋭いのです。私の感の鋭さはその昔、学生の頃、友人の近藤クンや有田クンから刑事になったらどうかと言われたほどでした。信じますぅ? それはさておいて、ジョバンナおばさんから鍵がいっぱい付いた束を手渡されました。敷地へ入る門の鍵、建物へ入るものとか郵便ポストの鍵、ガレージのもの、部屋の鍵など数えたらその束には6個もの鍵がついていました。ジョバンナおばさんに、キーがいっぱいあるね、と英語で言ったのですが通じません。ノンカピートとジョバンナおばさん。ま、いっか。
こうして私のイタリア滞在第一日目がスタートしたのでありました。
第3章 パドバ市と私の住まい
ガリちゃんが言います。明日の土曜日は町の広場で開かれる朝市へ連れていってやろう、そしてスーパーマーケットへ行く道順も教えてやるよ。
私のアパートはベネチアの島の西約40kmに位置するパドバ市の郊外にあります。会社のあるベネチアはあの水の都ベネチアに違いはありませんが、ゴンドラの行き来するベネチア島ではなく陸地側の工業団地の中にあります。そしてアパートのあるパドバ市は人口30万人ほどの中都市ですが日本の観光ツアーのコースには入っていないので日本ではなじみの薄い町です。しかしパドバ市は知る人ぞ知る歴史ある由緒正しい町なのです。ここにはパドバ大学という学生数7万人を擁する総合大学があるのです。歴史も古く、世界的にみてもボローニァ大学に次ぐニ番目の古さであのガリレオ.ガリレイが教鞭をとった大学として、そして地動説を唱えたコペルニクスが学んだ大学としても有名です。
私のアパートは一人暮しには広く、リビング、ダイニングキッチン、バストイレ、廊下、小さな2つの物置のほかにベッドルームが3部屋もあります。3階建ての3階のワンフロアーで広さ約30坪です。リビング、ダイニングキッチンの西側に面した広いベランダからの見晴らしも悪くない、ベランダの向こうにどこかの会社の建築資材置き場が目に付くのを除けば。しかし部屋には、ワードローブとかカーテンなどはなくこれから順々に取付けされるとのことでした。それでも当面の生活には困らないようです。とても大きなダブルのベッドもとても寝心地がよさそう。
第4章 朝市とスーパーでの お買い物
翌朝11時少し過ぎ、ガリちゃんが車でアパートへ来てくれました。朝市は毎週土曜日の午前中だけ開かれるとのことで、パドバ市の中心にあるパラッツオ.ラジオーネという旧市庁舎の古い建物の両側の広場に野菜、果物、穀類を主体としながらも、そのほか衣類、皮製品などの100軒余の屋台が出ます。広場の中心にある古い建物には常設の市場の商店が並び、肉屋さん、魚屋さん、チーズ屋さんなど食べるものは何でも揃っています。
私の目的は、「日本米」を買うことでした。テントを張った6メートル四方のその屋台へ行くとタイ米、インド米を初め各種のお米が並んでいました。その中に一つだけ日本米がありました。なんとその袋には緑色の裃(かみしも)を着た侍の絵が描かれているではありませんか。2キロ入りのポリ袋には「高級日本米」と書かれ、ブランド名が「日の出」と漢字で書かれています。なな、なんと日本製だべか? こんなイタリアの片田舎で日本製の米が手に入るのか? しかしその裏側にはアルファベットで「Shinode」と書いてあるのです。 「シノデ???」。「日の出」は“ひので”と読むのであって“しので”ではありまヘン。でもそんな細かいことにこだわっていてはとてもイタリアでは暮らしていけまへん、、とキツク自分に言い聞かせます。
どこで採れたものかはよく分からないけれども、形からして「ジャポニカ米」らしく日本で買う米と同じように見えます。袋に印刷した文字を読むと「寿司用」とも書かれています。寿司用の米なら上等品だぞ、、でもそれはちょっと違うゾなどと、心の中の葛藤を押さえつけとりあえず、計り売りで3キロ入を購入。1キロあたり2ユーロ(約300円)なので。まあまあの価格です。でもこれで日本米の入手方法がわかり一安心。米と醤油、そして味噌が手に入ればなんとかイタリアでも生きていけそうです。醤油はキッコーマンのオランダ工場製のものがスーパーで売られていることは以前から知っていたので安心です。ただし日本のように、減塩とか、うす塩とか、いろいろな種類はありません。容器も一種類しかなく、卓上に置く150ミリリットル入りのものでキャップ部分に2つの注ぎ口の穴がついているやつです。しかし、ああだこうだと、贅沢を言っている場合ではない。
一方、味噌はイタリアではまだ発見できていません。従って日本からの持参品で当分しのぎます。
朝市のあと、ガリちゃんは私のアパート近くのスーパーマーケットへ連れて行ってくれました。Iper LANDOという緑色の大きな文字が建物の側面に書かれています。大型スーパー.ランドという意味のようです。平屋建てでとても広く倉庫のような建物です。
広い駐車場の真ん中にカートが長い列を作って並べられています。カートの取っ手のところに1ユーロ(約150円)のコインを入れてカートの列から引き離します。カートを元の場所へ返すときはコインが返って来る仕組みになっています。こうでもしないと殆どのイタリア人は決して元の場所へカートを戻さず、駐車場のあちこちへ放置するのでしょう。
カートを押してスーパーの建物へ向かいます。入り口にはアフリカからと思われる黒い顔をした人が地面に布を敷いて、偽者ブランドのバッグなどの露店を広げています。
スーパーの通路をカートを押しながら、当面の生活用品、台所洗剤、食器洗いスポンジ、シャンプー、まな板、醤油、ケチャップ、マヨネーズ、コショウ、塩、オリーブオイルなど思いつくものを片っ端からカートに放りこむ。ケチャップなどもいろいろな種類があるけど同行のガリちゃんはスーパーで買物などしたことはないらしく、どれがいいのか殆どわからないのでお奨めブランドがわかりません。それでも1時間ほどして買い物終了。
ガリちゃんの車のトランクに買ったものを詰めこみ、アパートまで送ってもらいました。
第5章 イタリアワインと日本車
ガリちゃんの車も日本車です。日本車は買うときはイタリア車などより価格が少し高めだけど、数年間のメンテや修理費用を考えると断然日本車が経済的だとか。それに日本車は故障自体が少なくとても気分がいい。ガリちゃん曰く、日本はこれほどいい車を造っていながら宣伝が下手でヨーロッパではたくさん売れていない。一度日本車を持ったイタリア人などはこれ以上いい車はないときっと言うだろうというのが、ガリちゃんの意見です。
この宣伝に関連して、ガリちゃんは言います。イタリアのワインについても同じだと言います。ワインといえばフランスワインが世界的に有名です。ワインの生産量でも品質でもイタリアは決してフランスに負けていない。しかしフランスは宣伝やプロモーションがうまく、世界的にはイタリアワインよりはるかに高品質でうまいと思われている。ワインに関してイタリアがフランスに一歩遅れをとったのは宣伝のせいだというのです。あるフランスのワインメーカーなどはイタリアからワインを仕入れてフランスのラベルを貼って売っていた時期があるとガリちゃんは言います。ほんまかいな。でもありうる。ウンウン。
第6章 日本米
さてスーパーから帰って早速、買ったばかりの日本米シノデを炊きました。炊飯器は日本から持参したタイガージャー炊飯器ですが、ヨーロッパ仕様で220ボルト電圧対応、プラグは丸ピンで問題なし。炊飯器の説明書を読みながらでも、とりあえずのテスト炊きの3合はうまく炊けました。
初めてのトライ。味見をします。「う〜ん、なんとかいける、悪くな〜い」。
これでイタリアでの食生活の基盤は確保できたぞぃ、と一安心。
しかし、これには後日談が、、。
実は、私がイタリアへ引越しするとき別の航空便で衣類などを日本から発送していました。その中に、5キロ袋入りのコシヒカリの新米を入れておいたのです。この荷物はイタリアの輸入通関で手間取りましたが日本発送後2週間で手元に届いたのです。カートンで5つ。そのカートンが運送会社から会社の事務所に配達されました。それをアパートへ持ち帰った夜、3時間ほどかけて開梱し衣服などを所定の場所へ収めました。その中の、コシヒカリ、ああコシヒカリィ。それまでイタリアのShinode米に満足していましたが、それでも早速コシヒカリを2合炊きました。45分ほどして炊き上がったコシヒカリに感動。つやつや光ってるぅ。これまた日本から持参した茶碗へよそいます。そしてまた日本から持参した竹の箸でひとかたまりを口の中へ。言いようのない甘みが口いっぱいに広がります。じぃ〜ん。感激で思わず涙が出そうになります。これなら、オカズも何にもなくても大丈夫だぞ。やっぱしご飯は日本のものだべさ。
第7章 外国の食事と醤油
私は仕事の関係で、これまでアジア、中近東、南米、北米、ヨーロッパをまわり、それぞれの地でそれぞれの食事をしてきました。若い頃はそれでも、せっかくのチャンスなのでその土地々々の食べ物を積極的に食べてきました。香港へ行けば脂っこい広東料理、ブラジルへ行けば塩っ辛い焼肉(シュアスカリ)、イランへ行けば羊の焼肉やバターであえる長細いご飯、イギリスへ行けば味付けの薄いポテト料理、、、、しかし、しかし年齢を重ねるとともに醤油味がないと満足感が得られなくなってきてしまいました。なんで、なんで世界の人達はあんなおいしい醤油を使わないのだろう? 何年か前、キッコーマンのウィスコンシン工場へお邪魔をする機会がありました。ウィスコンシン州はアメリカの五大湖のうちのミシガン湖の西にあり、水がとてもきれいで豊富なので醸造に適しているということです。そもそもウィスコンシンという名前は先住民インディアンの言葉で『水が豊富』という意味に由来しているとのこと。当時のキッコーマンの工場の責任者の徳田さんによるとアメリカでも東洋人以外には醤油は殆ど受け入れられず、甘味を加えた照り焼き醤油を発売したら急にアメリカでも売れ出したと言っておられたのを思い出します。ベーシックな醤油はアメリカ人には受け入れられないのか。う〜ん、やはり人の味覚というものは簡単に変えられないものなのだ。
第8章 車の到着
イタリア到着の次の週に、私の車が納入されました。日本車です。私はなにも日本製にこだわっていたわけではありません。ドイツのフォルクスワーゲンの中級車「パサート」を候補にあげて、この車のオートギアチェンジ付きを望んでいました。でもヨーロッパではマニュアルのギアチェンジが一般的でオートギアチェンジのものは特殊とみなされ全体の5%以下とのことです。そのためパサートのオートギアチェンジの車は納入まで3ヶ月も待たなければならないとのことでした。慣れない道、右側通行、左ハンドルということがあり私はオートのギアチェンジの車でないとやっぱしまずいでないかぃと思っていました。タイミングよくその頃ちょうど、近くのディーラーへオートギアチェンジの日本車が1台日本から到着するとのことだったのでそれに飛びついたのでした。イタリアではミラノやローマなどの大都市は地下鉄、バスなどの公共交通機関が発達しているのですが、私の住むパドバ市郊外では車なしに生活は出来ないのです。バスはあるのですが、路線が自分の都合のいいようなところを走ってくれません。私のアパートから一番近くのスーパーへ行くのにも車で10分くらいかかります。
第9章 イタリアのアパート
さて車の運転にも少しずつ慣れ、通勤の道も覚えた頃、会社の秘書のオネエサンが言うのです。「あなたのアパートのキッチンとか家具とかカーテンとかは私やみんなで揃えてあげたのよ。そろそろお礼のお食事会を開いてもいいんじゃないのぉ?」
この秘書はオルネラという名前で私とは10年来の付き合いです。イタリア語はもちろん英語、フランス語を話します。英語しかできない私には強い味方です。しかし少し、いやかなり抜けているところがあり、ときたま腹が立つこともありますが、この30代半ばのオルネラ女史は歯がきれいで笑顔がとてもかわいく、憎めません。
アパートですが、ヨーロッパの賃貸アパートは大きく分けて二通りあります。一つは家具、ベッド、キッチンなどの備品が揃っているもの。そしてもう一つは、入居するとき家具などの備品が何も備わっていないもの。前者は備品を自分で揃える費用、手間はかからないが家賃が割高で1年前後あるいはそれ未満の短期間滞在用。後者は、家賃自体は安く2年以上の長期滞在用です。後者の場合の多くは、箪笥やベッドなどはおろかキッチンの流し台や照明器具もなにもなく、天井からは銅線が剥き出しの電線がぶら下がっているだけで、簡単に言えば、床と壁と天井があるだけです。壁や天井などは家主が責任を持って、新しい入居者のためにペンキなどで塗りなおしてくれます。そのほかは何にもない。前の住人が全部持って出ていくのです。でも洗面台とトイレの便器は残していくみたい。ですからソファー、椅子、ベッド、洋服ダンスはもちろんのこと、キッチンの流し台、調理台、洗面所の鏡、照明器具など何もかも新たに入居する人が自分で揃えなくてはならないのです。私のアパートは後者でした、つまり家具などは何も無い。イタリアの勝手がわからない私のために、基本的な生活備品は会社のスタッフが全部揃えてくれたのです。それが全部揃うには私が住み始めてからも数ヶ月かかりましたが、、、。
第10章 日本食ぱーちぃ
その秘書のオネエサンがお礼のお食事会を開いたら?というのは冗談だと思って笑い飛ばしていました。しかし私が反応しないとわかると、そのあと、ことあるごとに何度も同じことを言ってお食事会を催促するのです。3回目の催促を受けたとき私は、これは冗談ではなくて本気なのではないかと思うようになりました。それで3回目の催促を受けたあと、私が「そうだな、日本食パーティでも開くか」と言いました。そしたらそれを聞いた秘書のオネエサンが「ホント?」と目を輝かせるのです。「おうよ」と私が答えると、興味津々の顔をするのです。そこへ通りかかったお喋りのオニイサンが、また話に参加してくるのです。
そこで私が、「日本食はどんなものが食べたい?」と聞くと「スッシ!」と答えるのです。日本食は寿司しかないとイタリアの田舎の人達は思っているようです。でも我々も他人のことは言えません。多くの日本人はイタリアにはスパゲッティとピザしかないと思っているのですから。ヨーロッパでは生の魚を食べる習慣がないので殆どの人は刺身や寿司などの生魚は食べられません。食べられないことを知っていながら、日本食といえば寿司しか知らないので「スッシ」と言うのでしょう。日本へ行ったことのある人なら、天ぷらとかシャブシャブなどを知っているかも知れませんが。
私は意を決しました。日本食ぱあちぃを開くのです。
そんなある日、仕事でちょっとした問題が発生しました。私は急遽、日本へ帰ることになりました。うっとうしい揉め事を解決するための一時帰国でしたが、これは私が日本で日本食材を仕入れる又とないチャンスでした。
日本へ帰って、女房に言いました。近々、イタリアのうちで日本食ぱーちぃを開くんだけど、メニューはどんなのがいいと思う? うちの女房も欧米人が生の魚を食べられないのを知っていて、やっぱし天ぷらあたりがいいんじゃないの? と言います。決まりました、メニューが。やっぱし天ぷらです。すぐ女房と一緒に近くのスーパーへ出かけました。
天ぷら粉、サツマイモ、そしてレンコンなどを仕入れました。天ぷら油はイタリアのひまわり油でいい。他の野菜はイタリアへ帰ってからスーパーへ行けば何か見つかるだろう。
4月のある日、私は日本食ぱーちぃ開催を決心しました。ガリちゃんに誰を招待したらいいだろうかと聞いてみました。ガリちゃんは言います、お前が招待するのだからお前が決めればいいんだよ。それもそのとおり。金曜日の夜8時に決めた私は、例の秘書オルネラ女史はじめガリちゃんを含めた営業担当、資材担当など4人のイタリア人に都合を聞きました。みんな二つ返事でオッケー。ただし言いだしっぺみたいなオルネラ女史だけが都合が悪いといいます。言いだしっぺなんだから厭なはずがない。何で都合が悪いの?と突っ込んで私が聞きます。実はナポリに住んでいる女友達がその日来るの、と言います。それじゃあ、その友達も日本食ぱーちぃに一緒にどう?と私。じゃあ聞いてみるわ、とオルネラ女史。その友達に電話のあと、返事はオッケー。女友達はパオラというそうです。どんな子なのかちょっと楽しみ。
結局、招待者はガリちゃん初め会社の男の人3人と秘書オルネラ女史とその友人のパオラ嬢の合計5人。
いよいよ、ぱーちぃ当日。仕事も早々に片付け夕方6時に会社を出ます。
うちに着くや否や、エプロン姿に着替え、早速仕込みにかかります。2時間あれば余裕と思っていたのですが、ぱーちぃスタートの8時までいっぱいかかりました。8時少し過ぎた頃からぼちぼち招待客が集まり始めます。8時から深夜12時まで、大いに盛りあがりました。当初7時半からの予定でしたが、前の週の日曜日から夏時間に移行していて、7時半ではまだ外は明るく晩餐のイメージがわかないので8時に変更しました。
メニューは;
和風ドレッシングをかけた野菜サラダ、日本から送った新米コシヒカリの白いご飯、赤出し味噌汁、かぼちゃ、さつまいも、レンコンの天ぷら、鶏の唐揚げ、日本酒、ワイン、ビール、日本茶、ティラミス、でした。ティラミスは招待客オルネラ女史の持参です。
みんなきれいにたいらげてくれ、ご飯や赤だし味噌汁をおかわりをした人も何人かいました。日本食は初めてというパオラ嬢は箸の持ち方で格闘し話題はいっぱいでした。醤油味の和風ドレッシングがとてもおいしいと言う人もいました。一般的にイタリアのレストランでは野菜サラダなどの味付けはテーブルに備え付けのオリーブオイル、酢、食塩、コショウなどで自分で好みの味付けをします。ドレッシングという出来合いのものはテーブルに置かれていません。
テーブルに乗った料理の中では私の自信作の鶏の唐揚げがやはり一番人気でした。最初の分では足りなくなり、追加で仕込んで最初と同じくらいの量をまた作りました。それでもすぐになくなってしまい、最後の一切れが大皿に残りました。皆が遠慮して手を出さないのです。見るに見かねた私が、その最後の一切れを包丁で半分に切り、二人のレディー、オルネラ嬢とパオラ嬢の小皿へ分けました。この2人は待ってましたとばかりすぐ口の中へ放り込みました。それを見た皆は意味もなくニンマリ。この鶏の唐揚げについては、オルネラ女史には作り方を教えて欲しいと言われました。しかしそれを聞いたガリちゃんが、私に言います。『それは秘密にしておくのだ。教えるな』と遮ります。そうです、教えられないのです。実は私とガリちゃんは密かに将来、共同出資で日本食レストランを開くことを考えているのです。私はカツ丼とか、焼き魚を安く食べられるような大衆食堂的なレストランを描いているのですが、ガリちゃんは会席料理のような高級料亭風にして値段も高くとろうというのです。私は若かりしころ学生時代に大衆食堂兼飲み屋みたいなところで数年間アルバイトをして庶民的な料理を作っていた経験があり、イタリアの人たちに安くてうまい日本料理を食べさせてあげたいという夢があるのです。
評判のよかった鶏の唐揚げについては、味付けに醤油が入っていることはイタリア人にはわからないと思います。それでもオルネラ女史は、これはきっとガーリックがはいっているよね、と言います。当ったりーです。日本から持参した片栗粉もイタリア人にはわからないだろうと思います。日本の皆さんは西洋料理と日本料理の基本的な違いをご存知でしょうか。味とか素材の問題ではありません。既にお気づきの方もあると思いますが、それは料理の出し方にあるのです。通常の日本料理は、テーブル狭しとばかり、その日の料理の殆どを同時に乗せます。そして、その沢山の料理にかわるがわる箸をつけます。しかし西洋料理は、テーブルに乗せられるのは一品一品で、まず複数の料理が同時にテーブルに乗ることはありません。そして、一つの皿を平らげる、或いはその皿のものを食べるのを放棄したのがわかると、初めて次の料理が運ばれてくるのです。私が大発見したようなことを言っていますが、皆さんとっくにご存知でしたかぁ?
さて招待された中の一人のオッサンが自分も料理が得意だというので、いつかその家でイタ飯ぱーちぃを開こうという話しになりました。イタリアだからイタ飯は当たり前です。
そしてイタリアにはイタ飯屋がいっぱいあります。私の知っているだけでも6軒はあります。(6軒ばかりのはずはネェだろうが! ハイ、そのとおりでゲス、ふざけてスンマヘン)さてこのオッサンの招待をあてにしないで待つことにします。このような招待の場合、イタリアでは、来週あたりなどと言われたら大抵は数ヶ月先、『いつかそのうち』などといわれたら数ヶ月後か数年後か、まず実現しません。このような会話の場合は往々にして、『明日』というのはラテンの国では今日の次の日ではなく、『近い将来』という意味に解釈しなければなりません。逆に自分が、うっかり安請け合いをして約束などを守れなくなってしまっても気にする必要はありません。殆ど責められません。言ったことや約束をキチンと守ると「なんと堅い人なんだろう、変人か」と警戒されるかも知れません、ラテンの国では。しかし、いかにラテンの国と言えどもキチンと約束を守る人のほうが信頼されることは間違いありません、多分、、、
さて日本食ぱーちぃでは、実はチラシ寿司もやろうと思いましたが新米コシヒカリの本当の味が隠れてしまうように思われたのでやめました。
日本から持参した4合瓶入りの日本酒2本はあっという間に空になり、お次は赤ワイン、それがなくなったらビール。みんな飲むわ飲むわ、そして大声で喋るわ、笑うわ、、近所中に聞こえそうな騒ぎです。いつもは私一人なので、静かなあそこのお家に何が起こったのかと思われそうです。にぎやかな会話の一例です。 「この娘は料理が得意だと言っているが、それは全くのウソで実は料理は全然できなく、毎晩ディスコへ行って男を漁っているとか、この男はいつかレストランで食事中にそばを通り過ぎたきれいな女の子に見とれて同席の女房に怒られたとか」会話はイタリア語と英語のちゃんぽんです。日本人は私一人だけなので日本語の出る幕はありません。翌日が休みという金曜日の夜ということもあり、皆、ハメを外して深夜12時まで大騒ぎをしました。とっても楽しい夜でした。
第11章 イタリア語の お勉強
私のイタリア滞在から数ヶ月が過ぎました。イタリア滞在というせっかくのチャンスを生かし、私はイタリア語をマスターしようと企てていました。日本からNHKの「イタリア語スタンダード40」というCDを持ってきていました。休日にはそのCDを聞きながら勉学に励みました。しかし若いときと違って覚えたつもりが、次から次へと頭から消えていくのです。若い頃は記憶力のよさを誇った私の頭脳は今となってはちぃっとも役に立たなくなっていたのです。挨拶程度の言葉は覚えられてもそこから先へ進めません。でも数字は何とか1から100まで言えるようになりました。数字を覚えると買い物が楽になりました。あるとき駅の売店で買い物をしました。売店のおばさんは半端な代金を言いました。確か12.45ユーロとか。12.45は「ドゥディッチ、クアランタチンクエ」と発音します。相手の言うことがわからず大きなお金を出すと、ついつい小銭のおつりがいっぱい溜まってしまいます。この駅の売店では12.45ユーロを小銭を含めてきっちり出しました。お店のおばさんが、ペルフェット(完璧)と言ってにっこり笑ってくれました。数字がわかるようになってからは買い物をする時、きっちり小銭まで自分から出すようになり、小銭で財布がいっぱいにならなくなりました。スーパーなど大抵の買い物では、キャッシュカードで支払うので小銭を扱うことはありませんが、それでもみやげ物とかバール(喫茶店)などの少額の支払いは現金で支払うことが多いのです。
さて自堕落な私はイタリア語学習はちっとも進みません。それで近所にあるイタリア語学校を探しました。地域の公共施設で無料で、私のような外国人にイタリア語を教えてくれる講座がありました。週に2回、夕方の7時からというカリキュラムがありました。しかし私の仕事では、その講座へ夕方7時までに行くのはとても難しいのです。これは諦めました。それで会社の仕事が終わった頃、会社の事務所まで来てくれる個人教授を探すことにしました。できれば、一生懸命になれるきれいなおねぇさんが、ええなぁと思いながら。しかし、残念ながらナイアガラ、今のところまだ見つかりません。
第12章 ベネチア ムラーノ島、ベネチアングラス
私の住むパドバ市郊外から水の都として有名なあのベネチアの島までは、最寄りのパドバ駅から電車で30分くらい、車でも高速道路でぶっ飛ばすと30分ちょっとで行けます。イタリアで高速道路で飛ばすと言うと、時速150kmくらいのことを言います。ついでながらドイツの高速道路アウトバーンでは時速180kmで飛ばしていても追い抜いていく車がいっぱいいます。
ベネチアの島々への入り口とも言うべきローマ広場の乗り場から水上バスで30分ほど北へ行くとムラーノ島と呼ばれる島があります。13世紀の終わりごろ、当時ベネチアのあちこちの島に点在したガラス工場をまとめてこのムラーノ島へ移転させベネチアングラスの生産を集約させるようになったとのことです。ベネチアには大小あわせて合計120くらいの島があるとのこと。ガラス生産には火を使うので火災発生の危険から避けるため一箇所に集めるという大義名分があったとのことですが、本当は、その技術の流出を防ぐ目的があって一つの島にガラス職人を閉じ込めたとも言われています。当時のベネチアはガラス製品が外貨を稼ぐ貴重な輸出品だったのです。ムラーノ島には今でも160余のガラス工場があります。ベネチアングラスと呼ばれるガラス製品は全部このムラーノ島で作られたものです。
たまたま日本からの来客があったので、一日時間をとってベネチアへ行きました。
来客は3人で、みな日本人です。そしてガラス工場を見たいという要望がありムラーノ島へ行くことにしました。ローマ広場から30分ほどの船旅でムラーノ島へ着いた頃はお昼どきだったので、レストランでランチをとろうということになりました。水路沿いに屋外の席のあるレストランへ行きました。イタリア語では「リストランテ」と言います。イタ飯屋です。(当たり前だ、わかってるってぇのに!) 白いジャケットを着た年配のウエーターが2人忙しそうにテーブルの間を行ったり来たりしています。そのウエーターに、「クアトロ(4人)」というと、テーブルを準備するから2分待て、という返事。普通は1分待ってと言うのに2分待てとは、面白いねなどと言いながら待つことにしました。しかし10分待ってもそのウエーターは忙しそうに動き回っているだけで我々には目もくれません。私達のあとに、男女のカップルが客として来ましたが、そのウエーターおじさんはやはり「2分待て」と言っています。我々が座るらしいテーブルはとっくに準備できているように見えますがいつまでたっても案内はしてくれません。同行の日本人は待ちきれず、他の店へ行こうと私をせかします。でもどこの店へ行っても同じようなものだから、もうちょっと待ちましょうよ、と私。10分や30分待たされたからって、イライラするようではイタリアでは生きていけまヘン。そんなせっかちな奴らはイタリアなんかへ来るな! 日本でセカセカやってろ! と言いたいのですが、大事なお客さんなのでそんなこと言えまへん。口が裂けても言えまへん、、待てよ、口が裂けたら言うだろうな、あたしゃぁ、きっと。
結局15分くらい待ったあとやっとテーブルへ案内されました。そのテーブルは4人掛けのもので、とっくに準備できたと思っていたテーブルは6人掛けで私達4人用ではなかったのです。みんなで食べたスパゲッティはボンゴレもボロネーゼも、まあまあの味でスパゲッティそのものもコシがあって、正にアルデンテ、イタリアらしい出来ばえでした。さすがイタ飯屋!(くどいゾ)
さて同行の日本人来訪者のご要望であるベネチアングラスのガラス工場を探さなければなりません。私もそれまではガラス工場はテレビでしか見たことがありません。どこへ行けばガラス工場が見られるのか、そのレストランのウエーターに聞こうと思ってもとてもとても忙しそうで「お前達の相手などしていられない」という無言のポーズが伝わってきます。
結局、店の奥へ入りカウンターにいるおばさんに聞きました。
「英語わかりますか?」と私。ちょっと待って、とおばさん。でもそばに立っていたお客らしいイタリア人おじさんが、「俺はちょっと英語が分かるけど、何だい?」と言います。
結局そのイタリア人おじさんからガラス工場を見せてくれそうな店を聞き4人でそのレストランを出ました。
さて、教えてもらったベネチアングラス屋さんはすぐ見つかり、お店に入って工場を見せて欲しいと言ったら、ビシッとスーツで決めた若いダンディなオニイチャンがにこやかに微笑みながら「どこのツアーどすか?」とか聞くのです。「いいや、うちらはツアーではありまへん」と言ったら「予約でいっぱいでダメどす」と言うのです。イタリア語には京都弁はないと思いますが、とにかくそういう雰囲気の喋り方なんですぅ。
なんとかしてくれ、とねばっていたらオーナーらしいオッサン(あたしもオッサン)が出て来て、どうかしたんか?と聞くのです。
「あたしの女の友達が、この店へ行ったら工場を見せてくれる よ、と言っていたので来たんだべや」
と私が言ったら、そのオーナーらしいオッサンは(あたしもオッサン、、、くどいっ)、
「お〜ぅ、そうか、それじゃぁ息子に案内させるわ」と言ってちょうど顔を出した息子らしい若いニイチャンに何やら指示をしました。その息子らしいニイチャンはスーツではなくラフなポロシャツをお召しになっております。でもなかなかのハンサム。
ところで、あたしは友達の女の子の紹介なんてぇのは口から出まかせで言ったのです。
あとで考えてみると、そのオーナーらしいオッサンはきっとあちこちで女の子にいいカッコをして、
「うちへ来たらいつでも工場を見せたるわ。友達でもなんでも連れてこいや」
なんてぇことを得意がって言っていたのではないかと思えてきました。そしてあたしが、女の子の紹介だ、と言ったのできっと
「そういえば何人かの女の子にいつでも来いやって言ったことが あったなぁ。どの子だったっけ? でも次にその子に会った 時、話しが違うでねぇの!」と言われたらマズイので、わたしの申し出をオッケーしたのではないかと思えてきたのです。
でもとても愛想のいいオッサン(あたしもオッサン、、、ホントくどいぞ)でした。
しかしおかげで、ガラス工場を見ることが出来ました。
ガラス工場では、5人の職人が溶鉱炉の小型版のようなガスの炎が燃え盛る炉の前で、長い鉄パイプの先の溶けたガラスの塊に反対側から口で空気を送りながら作品の形を作っていました。溶けたガラスは飴のようです。ハサミで切ったりしながら、まるで飴細工のように形を作っていきます。そのときはなにやら置物を作っているようでした。
工場見学のあと、ガイドのオニイサンが展示場も見ますか?と聞きます。
おぅよ、と答えると、曲がりくねった通路を経て広い展示室へ着きました。展示室にはベネチアングラスの粋を集めた様々な見本が、ところ狭しと並べられています。高級品は最低六客セットで、豪華なのは、ワイングラス、水のグラス、プレートなどがすべて同じ模様でフルセットになっています。結局それらはすべて見本で、客はその見本を見て注文するとのこと。注文すると世界中どこでも2〜3週間で航空便で届けてくれるとのこと。しかし我々はとってもそのような高級品を買うような気もなく、ましてやお金もなくガイドのオニイサンの誘いも軽く流します。
結局、店の出口にある端数を展示してある棚から私は花瓶を選び購入しました。正札には25ユーロ(約3800円)。ステンドグラスのような色取りで一輪挿し花瓶です。ガラスに少し曇りがあったので、店のおじさんに、この汚れを拭き取ってよと言ったところ、これは作るときにできたガラスの汚れだから拭き取れないとの返事。その代わり5ユーロおまけしてあげるとのこと。私は値切るつもりなどなかったけど、なんだか得したような気になって買ってしまいました。同行の人たちは、イルカの置物とか、ペアのワイングラスなどを買いました。
あとで日本のガイドブックを見ていたら、我々が訪れたガラス工場は「CAM」という名前でムラーノ島でも有数と紹介されていました。ふぅ〜ん、そんなに有名な工場だったのか。予約でいっぱいだということも無理はないか。知らないということは強いもんだ、などと思ったのでありました。
第13章 やさしいジョバンナおばさん
その日はまた日本からの来客を迎えに行くため、会社へは出ず自分のアパートから滞在先のホテルまで直接行くことになっていました。そのため、いつもは会社へ行くのに7時半頃にアパートを出るのですがその日は10時にアパートを出る予定でした。9時半ごろ鏡に向かってヒゲを剃っていると玄関のブザーが鳴りました。ドアを開けてみると管理人のジョバンナおばさんでした。
いつもの出勤時間を過ぎても私の車が表に止まっていたのでジョバンナおばさんが心配して部屋を覗きにきてくれたのでした。例によってあまり言葉は通じなかったけれども、ジョバンナおばさんは、胸のあたりに手をやって動かしながら心配そうな顔をして、「大丈夫か、風邪でもひいたのか?」というそぶりでした。その意味がやっとわかったので私は「大丈夫、これからお客さんを迎えにいくのだから」とイタリア語で言いました。この説明が通じたかどうか分からないけど、身体は大丈夫だということは通じたようで、「それなら大丈夫だね」という顔でジョバンナおばさんは帰っていきました。
ジョバンナおばさんの親切が感じられてとても嬉しかった。言葉は通じないけど、いつも気にかけていてくれるという事がわかりました。最近の日本の都市なら、おせっかいと言われそうなイタリアの田舎の人の親切さが分かり、一人暮しの私はドアを閉めたあと思わず、じい〜んとなってしまいました。
ところがその翌日私は本当に風邪をひいてしまったのです。ドイツへの出張とか来客の対応とかが2週間続き、寝不足気味で疲れていたのかも知れません。タイミング悪く来客の一人が風邪をひいていて、その風邪をもらったらしく鼻水がでて喉が痛くなってしまいました。体温計がないので熱は測れないけど少し顔がカッカして熱っぽいのです。日本から持ってきた風邪薬を飲み、イソジンで一生懸命うがいをしました。手遅れか。うがいは普通、風邪をひく前にするもんだもんな。
ジョバンナおばさんに、今度はホントに風邪をひいたよと言わなければならないかも。でもホントに言うつもりはありません。もし言ったら、薬を持って来たり医者を呼ばなくてはいいのか、ということになりそうなのです。
第14章 イタリアの運転免許証とマフィア
冒頭でイタリアでの運転のことを書きましたが、イタリアで車を運転するにはもちろん運転免許証が要ります。世界約90ヶ国の間で相互に国際条約に基づいた合意がありそれぞれの国で発行した国際免許証で他国でも運転できるというシステムになっています。ご承知のように国際免許証といっても特別に試験を受ける必要はなく、日本で最寄りの運転試験場などへ行って手数料を払えば、日本の運転免許証に基づいて、日本語の他に英語、フランス語、ロシア語、中国語を併記した国際免許証を発行してくれるのです。この国際免許証というのは大きめのサイズでパスポートより一回り大きくちょっと扱いに不便。有効期限は一年。もちろん日本もイタリアもこの国際条約であるジュネーブ条約に加盟しているので、私も日本で発行された国際免許証でイタリアで運転できるわけです。
私のイタリア滞在がそろそろ1年になろうとするころ、ミラノの弁護士に会う機会がありました。このミラノの弁護士というのは以前まだ私が日本にいる間にイタリアの会社の登録などに関する法的手続きでお世話になり何度か会っています。カーラ.コロネリというこの女弁護士は歳のころなら50歳少し過ぎ、小柄で身長は1m50cmそこそこです。
コロネリ女史いわく、「あなた、外国人が1年以上イタリアに滞在すると国際免許証は無効になり、イタリアの免許証がないと運転できなくなるのですよ、知っていましたか?あ〜たもそろそろ1年になるでしょう。だからイタリアの運転免許証を取らなくてはいけないわね」。
なっ、なっ、なんのこっちゃ? ボンジョールノ(こんにちは)しか知らない私がイタリアの運転免許試験なんか受けられるわけがな〜い。全てに、人生にも自信がない私でもこのことだけは自信を持って断言できます。(そんなに威張ってどうすんじゃぃ!)
会社の仲間に、この運転免許証のことを話しました。日本語はかなわないにしても、せめて英語でイタリアの運転免許試験を受ける方法がないのか、聞いたのです。私の働く会社にルーチョという営業マンが言います。外国人には特別に通訳をつけて試験を受けることが出来るらしいぞ、と。それは願ってもないことで、私は、その件について調べて欲しいとルーチョ君に頼みました。
ルーチョ君は背丈が180センチを超え、脚が長くてとてもカッコいい、でも40歳前なのに前頭部がかなり禿げ上がっています。それで、ヤケクソ、かも知れませんが、バリカンで丸坊主に刈ったヘアスタイルをしています。いわゆるスキンヘッドの となりみたいなヘアスタイルです。
数日してそのルーチョ君が私に言いました。例の通訳をつけて試験を受けるということだが、通訳が試験問題を通訳してくれる時、答えも教えてくれるので絶対受かるゾというのです。これはシメタと私は思いました。どこで試験を受けられるのか更に調べて欲しいと私はお願いしました。しかし更に数日して、ルーチョ君は言うのです。どうも通訳をつけて試験を受けられるというのは間違いらしい、やっぱしイタリア語しかダメみたい。ルーチョ君は典型的なイタリア人で、とても愛想がよく、しかし時間にはとてもルーズなところがあります。でも人がいい。それで、「あんたの運転免許証について調べてやろう」と親切に言ってくれるのです。ルーチョ君は驚くべきことを言います。南のナポリへ行けば、お金を出して運転免許証が買えると言うのです。いくらかは相場はわからない、でも数千ユーロ(数十万円)らしい。来週、仕事でナポリヘ出張するので調べて来てやるとのこと。私も非合法なことは、おおっぴらにはできませんが大いに興味があります。でも偽造免許証はダメだぞ、本物でなければとルーチョ君に言います。ルーチョ君曰く「大丈夫、ナポリのギャング組織が、警察官を買収して本物を発行させるのだから、、」。アフリカなどからの不法滞在者が運転免許が正式に取れないので、ギャング組織から買っているとのこと。う〜ん、マフィアなんかで有名なイタリアならありそうな話だ。いよいよ俺もマフィアの世界と繋がりを持つのか、、。ゴットファーザーのコルレオーネ ファミリーと知り合いになったような気分。
2週間ほど経ったあとルーチョ君に聞きました。ナポリで免許証が買えるという件はどうなった?と私。ルーチョ君は答えます。ナポリ出張が中止になったので、まだ調べてない。結局、2ヶ月経ってもルーチョ君は返事をくれません。そろそろ私が諦めかけていたころルーチョ君が私のところへ来て言いました。最近はアフリカからの不法入国者が急増し、運転免許証の不正発行が多く、当局の取締りが厳しくなりナポリのギャングも今は不正免許証の発行のビジネスから手を引いたとのこと。どこからどこまで本当かわかりませんが、私はこのルートを諦めました。
運転免許証にはまだ続きがあります。ある日、イタリア人の仕事仲間数人と郊外のレストランへ夕食に出かけました。この時、私はイタリアでの運転免許証の話をしました。夕食を一緒にしたメンバーの中に、これまた気のいいジョゼッペというスペイン支店駐在の営業マンがいました。ジョゼッペ君曰く、「問題ない、私に任しておけ、あんたの免許証はなんとかしてやる」。またルーチョ君と同じパターンかと思いましたが、問題ないってどういう方法なの?と私はジョゼッペ君に聞きました。彼は言いました。「自分の叔父さんが警察に顔がきくから何とかあんたの免許証を発行させてもらってあげる」。これもイタリアなら、ありそうな話だと私はすがりました。それ以後、ジョゼッペ君に2回ほどプッシュしましたが、彼の返事は、曖昧です。結局私はこのルートも諦めました。
どうです、イタリアは楽しいと思いませんか?
第15章 交通検問に引っかかる
そんなある日、私が運転中、交通検問で警察官に止められたのです。会社の帰りに買い物をしたあと、いつも通らない道を通ったのです。私は国際免許証で運転していました。前に書いたように、私はイタリア滞在から一年を過ぎたので、国際免許証では運転できないのです。しかし数ヶ月前に一時帰国したとき国際免許証を書き換えているので、国際免許証自体の期限はまだ切れていなく有効期限内なのです。さて私の車を止めた2人の警察官は、イタリア語でなにやら話しかけて来ます。当然まず免許証を見せろというのが相場です。それでもイタリア語がわからないふりをしてとぼけた反応をしてみました。言葉がわからないふりをしたとかカッコいいこと言っているけど、実は本当にわからない。
しかしその警察官はまず車のエンジンを切れとジェスチャーで言います。エンジンを切ります。そして仕方なく国際運転免許証を出します。二人の警察官はヒソヒソ話し合いながら、私の国際運転免許証から名前などをノートに書き移しています。ゲッ! 私の名前や生年月日からイタリアへ入居した日をあとで調べるのだなと思ったら冷や汗がでました。警察官達は、国際運転免許証を私に返し、蛍光塗料を塗ったステッキを動かし、行ってよろしいと合図をします。その場では何も起こらず何もなかったようにアパートまで帰ることが出来ました。しかし、あとで呼び出しが来るのではないかと、ひやひやです。実は、私と同じようにイタリア滞在が一年を越えた後、日本の発行した国際運転免許証で運転していたミラノ在住の日本人が交通事故を起こし、とんでもない目にあったとミラノの弁護士から聞いているのです。交通事故自体は軽いもので問題はなかったのですが、事故証明などで警察官が立ち会ったとき、その日本人はイタリア滞在許可証などを提示したため、一年以上の滞在が発覚し、事実上の無免許運転とみなされ、車を取り上げられたうえ、数十万円相当の罰金を払わされたのです。これは弁護士から聞いた話なのでウソではないと思います。ミラノの弁護士は、私に忠告してくれます。もしあなたが事故なんか起こしても、滞在許可証などイタリアへ住み始めたことがわかる書類は警察なんかに出さないようにしなさい、、、と。 出さないようにしなさいって、出さないで済むんですかぁ?
数日後、仲間たちと一緒にランチをとったとき、私が警察官に呼び止められて、国際運転免許証から名前などを控えられたと説明しました。同席したガリちゃんとかルーチョ君などは、私がもう国際運転免許証で運転出来ないことは知っています。しかしガリちゃんは笑いながら私に言います。「心配するな、イタリアの警察が、お前がイタリアへ移住したのがいつだとか調べるなんてことは100%ありえない。縦の連絡さえまともに出来ないイタリアの公務員が管轄を越えた部署の横の連絡を取るはずがない」とのこと。イタリアで生まれてイタリアに50余年住んでするガリちゃんの言うことを信用しよう、と思いました。気が楽になりました。そしてそれは正しかったことが今になって証明されています。何のお咎めもないのです。さすがイタリア、ビバ.イタリア。なんのこっちゃ。
第16章 イタリア運転免許証取得手順
そんなこんなで私はイタリアでは実質、無免許運転をしていました。でもまた検問で止められても、国際運転免許証を見せればうまく行くだろうと思っていました。でも事故などを起こすと、いろいろな書類を要求され、私がイタリアで運転資格がないことがバレてしまうので、安全運転に徹しました。
そんなある日、ミラノの弁護士のコロネリ女史から、日本政府とイタリア政府が運転免許証についてある合意に達したというニュースが入りました。
つまり、イタリアに住む日本人、日本に住むイタリア人に対して、それぞれの自国の運転免許証があれば、それを書き換えるだけで他国での免許証が発行されるというのです。要するに私が日本の免許証を持っていれば、イタリアでの試験は受けなくても、書類手続きだけでイタリアの免許証が発行されるということです。実は数年前はそのようになっていたのですが、外交上の駆け引きのせいで、それが中断され、私のような者が迷惑をこうむっていたのです。イタリア政府の気が変らないうちにと思い、私は早速、手続きに入りました。しかしその手続きの厄介なことと言ったら。日本の免許証をミラノにある日本領事館でイタリア語に翻訳してもらいその領事の証明をもらって来いとか、視力と身体検査に、どこかの事務所へ何曜日に行けとか、郵便局から為替でいくらいくら払い込めとか。その一環で申請書類にID(身分証明書)のコピーが必要であるということがわかりました。私はそれまでイタリアのIDを持ってはいませんでしたが、合法的にイタリアに滞在する外国人には、役所がIDを発行してくれます。日本では企業などが自社の社員に身分証明書を発行したりはしますが、公の機関が写真入りの身分証明書を発行するということはありません。パスポートや運転免許証が、それの代わりをすると言えばそうかも知れません。
私はすぐ自分の住むパドバ郊外の役所へIDを発行してもらうために行きました。警察署の発行した滞在許可証の原本を持参し、自分の写真と収入印紙を貼った申請書を提出すると、こりゃまた簡単にIDを発行してくれました。とにかく役所では必要書類の多いイタリアらしくない。少しあてが外れて拍子抜け。
第17章 結婚証明書
役所の受付のサンドラおばさんからIDを受け取り無事取得して、これで完了ですね、と私が確認して帰ろうとします。ところが、ちょっと待ってと言います。そしてガラス越しに、あなたは結婚していますかと聞くのです。当然私は「ハイ」と答えます。サンドラおばさんは中くらいに伸ばした黒い髪を後ろで束ねています。なんで私がサンドラおばさんの名前を知っているかというと、サンドラと書いた名前たてが目の前にあったからです。しかし、ケッコウ愛想のいいサンドラおばさんは妙な事を言うのです。「あなたの、役所への届出は独身となっている。結婚をしているのなら結婚証明書を提出してください」と言うのです。私は日本で結婚していますがイタリアでは結婚した覚えはないので(確か)、結婚証明書を取るとしたら日本でしかありません。でも待てよ、日本で結婚証明書なんて聞いたことがないゾ。
私はサンドラおばさんに言いました。私は結婚詐欺をしたりするつもりはないので、結婚していながら独身などと言ったことはないぞ、、、でもこんな難しいことは私はイタリア語では言えないので、心の中で思っただけです。しかし、本当に日本には結婚証明書などはないので、戸籍謄本ではダメかと聞きました。サンドラおばさんは、それしかないのならそれでいいと言います。
アパートへ帰ってから、早速日本の自宅へ電話をして、女房に戸籍謄本を取り寄せてE-mailで送ってくれと頼みました。数日してE-mailを受け取り、私はそれを土日の2日間かけて英語に訳しました。そのあと会社の仲間に頼み、英語からイタリア語に訳してもらいました。そしてそのイタリア語訳の戸籍謄本を持って役所へ行きました。日本語の戸籍謄本は原本でなければいけないので、コピーではダメだとサンドラおばさんは言うのです。また日本へ電話して郵便で戸籍謄本の原本を送ってもらうよう頼みました。ここまで来るのに2ヶ月かかりました。そして戸籍謄本の原本を持ち、私の会社の仲間が訳してくれたイタリア語の戸籍謄本を持って再度役所へ行きました。サンドラおばさんは私に聞くのです。このイタリア語訳は誰がしたのですか、と。私は、私の友人がしてくれましたと答えました。サンドラおばさんは更に言います。このような公式文書の翻訳は資格を持った弁護士などが翻訳したものでなければ無効ですと、、、。ゲッ! いまさら何を言うのだと私もアタマへ来ました。サンドラおばさんは言うのです、資格のある弁護士の翻訳には100ユーロ(約15000円)かかるよと。100ユーロも?と私は強い口調で、いや〜な顔をしてサンドラおばさんに言いました。皆さん、これからが腹が立つのです。それに対して、役所窓口のサンドラおばさんの返事を想像できますか?普通の日本人なら絶対、想像できないでしょう。もし当たったなら豪華客船での世界一周旅行、、、、のパンフレットを差し上げます。
サンドラおばさんの返事はこうでした。
「そ〜お、翻訳料が高いので困るのだったら、もういいわよ」
もういいわよ、とはどういうこと? 何がもういいわよなの?
サンドラおばさんは言います。
「結婚証明書はもう要らないわよ」
私は絶句しました。日本から戸籍謄本の原本を取り寄せたり、それを英訳し、更に友人に頼んで伊訳してもらい、このために3ヶ月も費やしたのです。それを「もう要らない」との一言で片付けられたのです。冗談は、よしこさん、何を、ゆうこさんです。おおっと、こんなギャグがサンドラおばさんに通じるはずがない。あーあ、これがイタリアなんだ。怒ってはいけない、こんなことで怒っていてはイタリアでは暮らしていけないぞ。実際に何か被害を受けたわけではないのだからいいではないか、、しかし、しっかし、、、握ったこぶしの震えを必死に抑える私でした。
結局イタリアでは私は独身となっているらしい。もしかしたら、このせいで結婚紹介所から、きれいなイタリアのオネエサンのお嫁さん候補の紹介とか写真とかがダイレクトメールで届くかもしれない、、それを楽しみに怒りを抑えよう。
第18章 運転免許証取得、ぶぁんずゎ〜い!!
運転免許証から、話が少し横道へ反れました。イタリアでの運転免許証は結局、手続きを始めてから4ヶ月後にやっと手に入りました。これで私は合法的に大手を振ってイタリアで運転ができます。事故を起こしても大丈夫だぞぃ。おお〜っと待て、無理に事故を起こす必要はないべな。このイタリアの免許証は写真付きのプラスチックカードでサイズはクレジットカードと同じ、有効期限が5年。これがあればEU加盟国のヨーロッパの国中、どこの国でも運転できます。
私は、免許証について心配してくれたガリちゃん、そしてナポリの闇ルートでの免許証の入手方法を探ってくれたルーチョ君、叔父さんのルートで免許証発行のルートを調べてくれたジョゼッペ君に、正規の免許証が手に入ったことを知らせました。彼らは私の写真入りの免許証を見ながら、「この写真は若すぎるぞ、何年前の写真だ?」とか言いながらも祝福してくれました。免許証については一件落着。後日談は、、、、ありません。
第19章 イタリアの挨拶
さて、イタリアの挨拶の言葉に関して、ひとくさり。
ご存知の方も多いと思いますが、イタリア語で、おはようとか、こんにちは、は「ボンジョールノ」と言います。こんばんは、は「ボナセーラ」。これぐらいは私でもイタリアへ来る前から知っていました。特に午後だけの挨拶には「ボン.ポメリージョ」と言ったりもします。ポメリージョは正に日本語の午後に相当します。
ところがイタリアへ住むようになって、イタリア人達とこれらの挨拶を交わすうち、私は何か違和感を持ち始めたのです。
「おはよう」と「こんにちは」に相当するボンジョールノは朝や午後の早いうち3時ごろまでに会ったとき交わす言葉です。英語で言うと「グッド.モーニングとグッド.アフターヌーン」の両方に相当します。グッドモーニングとか、おはようは、当然会ったときに交わす言葉です。そしてもし少し立ち話でもしたあとに別れるとしたら、「又ね」とか言って別れます。別れるときに「おはよう」とは言いません。ところが、ところが、イタリアでは、朝初めて会って「ボンジョールノ」と挨拶を交わし、少し話したあと別れるときにまた「ボンジョールノ」と言うのです。なんで、別れる時に、おはようなんて言うのだろう、、、これがイタリア語の挨拶言葉に対して私が持った違和感と疑問でした。周りにこのことを聞く人が誰もいなく、少しの間、私は自分の中で違和感を持ち続けていました。
そしてある日突然その違和感が吹っ飛んだのです。そのわけを発見したのです。
別れるときに言うボンジョールノは、日本語のこんにちは、ではなく「今日、これからいい日をお過ごし下さい」という意味になるのです。そして、夕方に別れるときに言うボナセーラは、こんばんはではなく「これから、いい夕べをお過ごし下さい」という意味なのです。こう解釈すると今までの私の持っていた違和感がすう〜っと解消されたのです。おそらくラテン語の国々のポルトガルやスペインでも同じではないかと自分勝手に決めつけています。ただ、イタリア語の挨拶で最も有名なチャオ(Ciao)は、ポルトガル語を話すブラジルでも使いますが用法が少しだけ違います。イタリアのチャオは会ったときも別れるときにも使います。日本語の「どうも」に一番近いように思います。でもブラジルではチャオは何故か別れる時にしか使いません。私は仕事で3ヶ月ほど、ブラジルのサンパウロに滞在していましたが、その理由が分かりません。わけを知っている方は教えてください。
第20章 サンマルコ広場で、映画「旅情」を気取る
春もうららな、ある土曜日に私はベネチアの島へ一人で車で遊びに行きました。特に訪れたいところがあったわけではありませんが、のんびりとベネチアを散策したい気分になったのです。島の入り口のローマ広場から水上バスに乗り30分ちょっとでサンマルコ広場へ着きました。サンマルコ寺院の前にある広場なのでサンマルコ広場と呼ばれています。見慣れた風景ですが気候がよくなったせいか、サンマルコ広場は世界中からの観光客でいっぱいです。古い映画をご記憶の方は知っておられるかと思いますが、このサンマルコ広場は、アメリア映画の「旅情、原題Summer Time」でキャサリーン.ヘップバーンとロッサノ.ブラッツイが出会った場所です。広場の屋外のカフェ(喫茶店)でこの映画のヒロインのジェーンとレナートは出遭ったのです。
私もロッサノ.ブラッツイを気取り屋外のカフェの椅子に腰掛けました。白いジャケットを着た年配のウエーターがテーブルへ来ます。私はプロセッコ、イタリア北部地方で作られる炭酸入りの白ワイン、を注文します。葉巻をくゆらせながら私は気取りまくってプロセッコのグラスを傾けます。冷えていてとてもうまい。目の前を観光客が行き交います。
私はイタリアに住みつく前から、出張のついでに何度もベネチアへ来たことがあります。当然、私も観光客であり来訪者でした。しかし、その日は目の前を行き交う観光客を見ていると自分は土地の者だという感覚になりました。お〜ぅ、今日も世界中から観光客が来とるな、、という感覚になるのです。日本からの女子大生らしい数人のグループが観光ガイドブックと地図を広げながら、どっちへ行ったらいいのかなどと話し合っています。実は私のイタリアの会社には日本人は私一人なので、なかなか日本語を話す機会がありません。つまり私は日本語が話したくてしょうがないのです。それで日本から観光に来た人などが困っていると助けたくなるのです。日本語が話せるからです。でも、その道に迷ったらしい女子大生達は、私がすぐ傍にいるのに私に道を尋ねようとはしないのです。「俺に聞いてくれよっ!」と心の中で叫びながら私はチラチラと女子大生達を盗み見ます。結局、彼女達は行き先がわかったらしく、無常にも私を無視して立ち去りました。なんと薄情な奴らだ。でも女子大生達は私の存在に気付いていないのだから、薄情者などと言う私は逆恨み以外の何者でもありません。スンマセン。
考えてみると、女子大生達から見れば、私は日本人か、なに人かわからないのに聞けるわけがありません。見かけからして私は東洋人だとはわかるでしょうが、、、。それにもし私から親切そうに声をかけたりしたら「怪しい東洋人の人さらい」と思われかねません。観光客に親しげに話しかけて来る人に注意しましょう、と書かれたガイドブックを読んだことがあります。そうか、そうだったのか。私は、サンマルコ広場で自問自答し、結局は日本語を話すことも出来ず寂しい思いをしたのでありました。
私の知人で台湾に単身で長い間滞在している日本人がいます。その人が私に言ったことがあります。人間が、人に対して一番親切になれるのは「私のように単身で外国に滞在する人が、母国から来た人に会ったときです」と。日本語が話したいと思ったり、人恋しくなって、何か力になってあげたいとか、困っている母国の人に親切にしてあげたくなるのだと言うのです。その通りです。まさに今の私がそうです。
第21章 民間親善大使
そして、私が日本人観光客と話し、親切にしてあげる機会が突然訪れたのです。
あるとき、私は仕事上の来客を出迎えるためにベネチア空港へ行きました。空港の建物の出口あたりで、新婚旅行らしい日本人のカップルが不安そうな顔をしてガイドブックを見ているのです。ガイドブックの表紙に「イタリア観光」と日本語で書かれていたので私には、その2人が日本人だということがすぐわかりました。その旦那さんらしき若い男の人が私の方をチラチラ見ています。そうそう、彼らから見れば私が日本人かどうかはわからないのです。何か困った様子です。しかし、しかし、人さらいと思われるのが怖いので私からは決して話しかけません。次の瞬間、その旦那さんらしき人と目線が合いました。その人はおずおずと私に歩み寄り「エクスキューズミー」と言います。私は待ってましたとばかり、しかし、おもむろに「何でしょうか?」と日本語で答えます。その男の人の顔がパッと輝きました。「日本の方ですか?」と弾んだ声でした。異国で困っている時に日本人に会えたのです。きっと私は神様か仏様に見えたことでしょう、、、私はそういう上品な顔はしていないのですが。
そのカップルによると、関西空港からパリ経由でベネチアへ来たのだけれども、ベネチアへ着いたら、スーツケースが紛失して届いていないとのこと。一応自分達で荷物紛失届けの手続きをしたけど、これからベネチアのホテルへどうやって行ったらいいのかわからなく荷物が出てきた時どうしたらいいのかわからず困っていたとのこと。経験されている方もおありでしょうが、こういうとき、通常はスーツケースの鍵などは空港へ預けます。荷物が遅れて届いたとき、税関でその荷物の検査を要求された際に開けられるようにするためです。しかしそのカップルは、イタリアの空港職員が信用できず、スーツケースの鍵を預けなかったというのです。そうすると彼らは荷物が届いた時、また空港へ来なければなりません。彼らは、そのつもり、つまり空港へ来るからいいと言うのです。しかし鍵を預けておけば、空港へなど来なくても、運送会社を使って自動的にホテルへ届けてくれるのです。私は旦那さんらしい人に聞きました。そのスーツケースにはカメラとか高価なものが入っているのですかと。返事は、衣類や洗面具などが入っているだけです。私は言いました、イタリアがいくら危ないといっても、空港職員はあなた達の衣類なんかを盗ったりしませんよ。だからスーツケースの鍵を空港職員へ預けなさい、荷物は明日には、まずあなたたちのホテルへ届けてくれるから、、。そして私は彼らと一緒に荷物係の所へ行き、鍵を預け、書類訂正のお手伝いをしてあげました。そして、ベネチアの島へ行く船の乗り場を教えてあげました。
でも彼は言うのです。私達はベネチアで3泊して、そのあとフィレンツェへ行くのですが、ベネチア滞在の間に荷物が届かなかったらどうしよう、フィレンツェのホテルの名前と住所も空港へ届けたほうがいいでしょうかと。私はアドバイスしました。3日の間には必ず荷物が届くから大丈夫、もしフィレンツェのホテルの名前や住所を届けたら、それこそイタリアのことだから、明日届いても、そちらへ間違って送られてしまう可能性があるよと。彼は納得しました。しかし更に言うのです。もしベネチアに3泊する間に荷物が届かなかったら、フィレンツェへ移動するのを延ばしベネチアに3泊以上することになる。しかしベネチアでホテルが延長できるのかも、また別のホテルが見つかるかもわからないので心配ですと。2人は本当に心細そうでした。私は胸を叩いて言いました。大丈夫、ベネチア滞在を延長することになってホテルが取れなかったら私へ電話しなさい、2人ぐらいなら何泊でも泊めてあげましょうと。私は自分の名刺を渡しました。名刺には私の携帯電話の番号も書かれているので、ここへ電話してくださいと伝えました。私はそのとき旦那さんの名前を聞きました。「新藤」ですとのこと。彼らが、あまりにも不安そうだったので私は2人と同じバスに乗ってベネチア島行きの船の乗り場まで一緒に行ってあげました。バスの中で私は奥さんらしい人に言いました。こういうことがあるとベネチアはきっと印象に残って、あとになるととても楽しい思い出になりますよ、かえって幸運だったと思ったほうがいいかもネ、と。しかし彼女は、悲壮な顔をしていて、そのような余裕はありませんでした。そうそう、私が彼らのことを助けてあげている間、本来の私が空港へ行った目的の人、つまり私が出迎えに行った人は、ず〜ぅっと我慢強く待っていてくれました。
それから数日間、私は新藤さんからの電話があるのか気にしていましたが結局電話はありませんでした。きっと予定どおりに荷物は着いたのでしょう。No new is a good news(便りの無いのは良い知らせ)とは、このことです。
それから2週間ほど経ったある日、私のパソコンにEmailが届きました。あの新藤さんからのものでした。彼らは広島に住んでいて、無事に帰国したとのこと。そのEmailにはオーバー過ぎると思えるほど私に対するお礼の言葉が書かれてありました。「ベネチアで大変親切にしていただき、お陰で楽しい旅ができました、頂いたご親切は一生忘れません」と。いいえ、いいえ、私も日本語が話せてとても嬉しかったので、お礼を言いたいのは自分の方ですと思ったけど私のEmailの返事には書きませんでした。ただ、私はEmailで書きました。「どうです、私が言ったとおりでしょう? 無事に帰る事が出来た今、ベネチアはとても印象深い町となり、荷物がなくなったこともとても楽しい思い出になったでしょう? 奥さんもそう思っていませんか?」と。それには返事はありませんでした。ま、いいけどね。しかし、それ以来私は、日伊友好民間親善大使を自負しています。
外交官の家 散策(by Makan_Anginさん)
「外交官の家」という古い家が石川町にあると聞いて、行ってみました。あいにく天気が悪かったのですが、良ければ眺めは良さそう。
家も明治の雰囲気が感じ取れ、とても面白かったです。まだ似たような建物があるらしいので、また行ってみようと思います。
帰りは中華街で昼食。
☆スリランカは宝石よりもキラキラ(7/14) コロニアル・ギャラリー(by 唐辛子婆さん)
閑静な住宅街を歩いていたらコロニアル風のギャラリーがありました。
コロニアル風の服を着た秘書のおじいさんがでてきました。
白いサファリに白い半ズボンに白いソックスに白い靴。
でね、そのおじいさんが
「おー日本人か。
日本にはジャヤワルダナの銅像があるんだろう?
日本の戦争賠償を放棄した大恩人だから。
各家に写真が飾ってあるというのは本当か?」
えっ?銅像の話なんて聞いたことがない。
が、「恩知らず」と言われるのも何だから
「そ・そ・そ・そうです。彼は日本じゃすっごい有名人です。」
行政上の首都スリ・ジャヤワルダナプラの名前は
この人を記念してつけられたのでしょう。大蔵大臣でしたから。
彼については「地球の歩き方」に詳しく書かれています。
ので、興味のある方は読んでください。
どうして日本にとって大恩人かというと
戦後の賠償を受ける権利を放棄してくれたからです。
「日本軍による被害は当然賠償されるべきである。
しかし、その権利を行使するつもりはない。なぜなら
『憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む』
というブッダの言葉を信じるからである。」
おー、かっこいい!
その言葉によって彼は「アジア唯一の外交官」と国際的賛辞をかちえた。
と書いてあります。
彼は大の親日家だったそうです。
「なぜ、日本や日本人が好きかというと、西洋に対して独自の存在を示しているからだ。それに仏教徒だから」
そこで、私は考え込む。日本人は仏教徒だろうか?
私が仏教徒になるのは浅草に外国人を連れて行く時と、お葬式に出る時と
外国人に宗教を聞かれた時だけ。
どうして仏教徒だと答えることにしてるのかというと
質問者に比べれば仏教に関する知識がマシなので質問に答えやすいからなのです。
こんなことを告白するとお釈迦様に叱られそうですが
寛容な方だからお許しくださるだろう。・・・と思います。
日曜日にお寺でのサンデースクールに通い
月に1回はお坊さんにお食事をさしあげ
満月の日には白い服を着てお寺にお参りしてお説教を聞く。
その日は肉や酒を飲み食いしない。
と、このように日常生活が仏教と密接に結びつき
教えを受けている人たちなら仏教徒といえるでしょうが。
スリラカは仏教徒でもない(かも知れない)国のことを仏教徒だと思い込んで
同じ宗教だから許してあげようとしてくれ
日本は仏教国だからと言われれば
はい日本は仏教国ですと言って賠償責任から逃れた。
のかな?
ところで、この赤い絵はギャラリーで売っていたカードです。
白い服を着てお寺に向かう家族。
ギャラリー開設以来引き出しの奥深くで眠っていたんじゃなかろうかと思うほど
封筒が黄ばんでいましたが、絵はラブリーでしょ?
ほのぼの感があって。
上海病院視察旅行記(日本旅行医学会)(by 空飛ぶドクターさん)
【上海初日】
11月9日から13日まで上海へ行って来ました。今回は目的がはっきりしています。上海の病院の視察旅行で、日本旅行医学会のプロジェクトです。現在、上海がニューヨークを抜いて、世界一日本人の駐在員とその家族が多いそうです。日本人の駐在員や旅行者が安心して入院できるレベルの病院かどうか、我々医者の目で確認するのが目的です。ですから、渡航費、ホテル代は学会から出ます。私は9月と同じ中国東方航空で福岡から直行便で上海浦東国際空港へ飛び、東京からの三人(二人の医師と中国人の通訳)を待ち、空港で合流しました。今年は9月の医者として初めて同行した中国ツアーが洛陽と上海でしたので、短期間に二度目の上海です。今まで近いのは知っていてもあまり中国本土には興味ありませんでしたが、実際に行くと福岡からはあらためて近いです。ちょうど、羽田までと同じ時間しかかかりません。正反対の方向ですが。
それから、観光で有名な海灘(ワイタン)地区にあるホテル(恒升半島国際酒店)へチェックインし、夕方、日本人用クリニックである上海グリーンクリニックで働いている一人の日本人医師にロビーに来てもらい、色々話を聞きました。そして、日程的に一番余裕があるので、夜は上海雑技団(China Circus World)をみんなで見に行きました。7月に久しぶりに訪れたラスベガスでのショーを思い出しました。食事は近くのレストランでしたが、魚等の素材を目の前で指定して料理してもらうタイプでした。中々全ておいしい中華料理でした。少し、レストランがうるさいので隣の会場を覗きに行くと、結婚式をやっている様子で、しばらく見学しました。基本的には、あまり日本のと変わらない印象でした。
【上海二日目】
今回の病院視察一番目は、午前中に2004年までは上海第二医科大学と呼ばれていた上海交通大学医学院附属瑞金 (Ruijin) 医院を訪れました。かなり立派な病院で、応接室でまず副院長と日本語のできる、つまり日本に留学経験のある女医さんと事務員が応対してくれました。最初に、病院宣伝用のビデオを見せてくれました。
この病院はフランス人による創設らしく、そのため今でもフランス語や英語のできる医者が多いそうです。もちろん、日本に留学した医者も多いそうです。肝、心移植が中国で最初に行われたのが自慢らしく、白血病の研究、火傷の治療でも有名だそうです。この病院には直接受診することも可能なようで、救急車(120番)を呼んだ場合、病院指定も可能だそうです。医学部には30〜50名の留学生(アフリカからも)がいるそうです。よく知られていることですが、アフリカはフランスの元植民地も多く、従ってフランスとの結びつきが強いのです。遠くここ中国まで留学生がいるのは、この病院がフランス人による創設という歴史と関係あるのでしょう。
中国でも有数の24時間対応の PTCA(要するに、カテーテルによる心臓手術)グループがあるそうです。90%の医者に留学経験があるそうで(多くは欧州)、同じ敷地内に外国人専用の病院もあります。日本語の通訳もあるようですが、料金がやや不明瞭で、外人は薬代以外、全て3倍の値段がかかるそうです。全室、個室です。
この日の午後は「中山医院」へ向かいました。まだ、中国語の「医院」が「大きな病院」を意味すると言うことが今一ピンときてない私は、日本にもありそうなちんけな「中山クリニック」のイメージで病院へ向かっていました。ところが、自分が間違っていると言うことに到着するとすぐに気が付きました。門を入ると広い敷地に、建物がいくつもあり、右手には建物の前に銅像があります。「中山」とは「なかやま」ではなく、あの中国の革命家、孫文の別名、孫中山「ちゅうざん」のことで、中国語で「ゾンシャン」と発音するらしいのです。要するに、ちんけな医院どころか、孫文由来の由緒ある病院らしく、よく読むと復旦大学の附属病院でした。
この病院では、専門が私と同じ泌尿器科の院長や北大博士号を持つ形成外科医らが応対してくれました。230例の心移植の経験があり、肝癌の治療で有名らしく、肝移植後の5年生存率も40%とかなりのレベルの病院のようです。院長が泌尿器科だけあって、泌尿器科もかなりのレベルのようで、腎移植も多数例やっており、ESWL(体外衝撃波による腎・尿管砕石術)や HIFU(超音波による前立腺の手術)も多数例やっているようです。
敷地内には外人専用病院である逸仙(これも孫文の別名らしい)病院があり、日本人が入院する場合はこの病院になるでしょう。印象に残ったのはこの中山医院を訪れたのは午後なのに、吹き抜けの広い一般外来待合室は非常に混雑していました。電光掲示板があり、色々な案内が流れます。かなり広々とはしているのですが、それ以上に人が溢れかえっているのです。人口の割に病院が少ないのでしょう。中国は政治的には共産主義ですが、病院でも医者のランクにより診察料金に差があり待合室に明示しています。教授も研修医も同じ料金の社会主義的な日本の病院よりはるかに資本主義的です。
夕方には、この日3つ目の上海浦東森茂診療所の内科の日本人医師と面会しました。この診療所も日本人専用で4〜5人の内科医と小児科医がいます。駐在員の子供を診てもらえるということで大事なようです。場所は第一森ビルで、最近できた有名な観光地でもある(第二)森ビル(9月には私は展望台まで登りました)の近くです。この先生は神戸大学出身らしく、まず3年間大連の病院で働いて、上海のこの病院へ移って2年目らしいです。
彼も夜は予定が空いていたので、我々四人と一緒に大榮府というレストランで食事をし、色々上海および中国の情勢について聞くことができました。早くも、2日連続名物の上海蟹を食べています。おいしいですが、私は勝手にタラバガニのような大きな蟹を想像していました。メスがオスより高く、小さいせいか一匹30〜60元(今回は1元が14円程度)とそんなに高くありません。但し、そんなに感動もしなかったのが正直な感想です。おいしくないことはないのですが、タラバガニのようにカニ足の大きな果肉を食べる方が好きです。彼は海外旅行傷害保険の Cashless service は便利だけど、査定が甘く問題が多いと言っていました。その他、中国らしく医療の世界でも色々な悪い連中が暗躍していて、料金等がかなり不明朗だと言っていました。本人はそろそろ日本に帰りたいそうですが、奥さんが日本では経験できない中国での生活が止められず、帰国できないそうです。出発前は反対していても、慣れると日本では経験できないような贅沢な生活を覚え、奥さんが帰国に反対するようになるのが一般的なようです。
【三日目、11日】
2ヶ月前の中国旅行で体重が増え、戻すのに苦労したので今回はジョギングの準備もしています。朝、少しホテルの周りを走りました。周りは結構貧民街でした。でも、ビルもあります。デパートらしき建物があったのですが、笑ってしまいました。大きく書いてある宣伝にです。 Chsedo と書いてあり、漢字でも自然堂です。もちろん、Shiseido、資生堂のコピーというのが見え見えです。同様にあるトイレで、 HOTO というブランドも見つけました。もちろん、これも TOTO のコピーに間違いありません。やはり、中国では何でもコピーされるのでしょう。
この日の午前中は、上海交通大学附属第六人民医院を訪れ、副院長、事務局長が対応してくれました。市内南西部に位置し、立派な中国庭園がある病院でした。整形外科、マイクロサージェリー(指切断後の再建術など)が有名だそうで、糖尿病の治療も有名で麻酔科もしっかりしているそうです。泌尿器科でも、尿道再建術で有名だそうです。但し、精神科はなく、火傷の治療もやっていないそうです。
救急患者は3級(日本の三次)急救(日本語と漢字が逆)で、緑色(green pass)優先で外人は優先的に診てもらえます。つまり、日本人の旅行者などが上海の病院を受診する時は、例えばこういう3級急救を受診すべきです。急診(急患)とも書いています。一般の受付に行くと、日本語も英語も通じないし、大変な混雑でとんでもないことになります。大事な情報です。ここにも特需室があり、入院の場合は同じく外人用です。日本語のわかる女医さんもいるそうです。もちろんここなら英語は通じます。ここの特徴として、かなり大きな高圧気船(酸素)室(hyperbaric oxygen chamber room)を備えています。ここも最新の CT や MRI の検査機器もあり、心臓カテーテル手術もかなりの症例をこなしているようです。
午後は、復旦大学附属華東 (Huadong) 医院を訪れました。今まで見た大学附属病院の中では、やや規模も小さく古い感じでした。名刺に東京医科歯科大学博士号を強調した医者などが応対してくれました。1951年に外交官の病院として出発したそうで、
2000年から附属病院になったようで、42の科があります。特需部という外人の多い(日本人も)病棟もあり、以前は外人専用だったようですが、今は中国人 VIP および富裕層もかなり入院しているようです。80%の医者が英語か日本語ができるそうで、ナースも半年以上日本に留学した人も多数いるそうです。
急救部専用の病棟もあり、一日 1000〜2000 元と少し高いようです。放射線科は名古屋大学と提携しているようで、CT や MRI も日本と同じ最新式のものが使われています。
今まで、昼食も夕食も中国人の陳さんがレストランを選んでくれて、さすがにどこもおいしかったです。でも、ふと気が付くと大量に注文するものの、健全に野菜料理が多いのです。私自身は野菜が好きだし問題はありません。そのせいか、今回はジョギングもしたし、帰国後もほとんど体重は増えていませんでした。
でも、陳さんが風邪でダウンしているので、この夜からは夕食は我々日本人だけでした。今回も同行している専務理事の篠塚先生が詳しく、人民広場の黄河路にある美食街で、安くておいしそうな店に入りましたが、全て正解でした。次の夜もこの一角に来ましたが、同じく安くておいしい店でした。
【四日目、ハイライト】
この朝もジョギングしました。昨日と違って、ビルの谷間の反対側を走りました。しばらく走ると、第一人民医院というかなり大きな病院が見えました。確か、最後の日に訪れる予定の病院の名前がこんな名前でした。ひょっとしたら、最後の日にこの近くの病院訪問を入れているのかもしれないと思いながら、走っていました。でも結論から言うと、同じ名前の病院が南部の郊外にもあり、私が見たのは北部というか中心街にある病院でした。郊外のはもっと巨大な病院でした。後述します。
この日は、市内北東部に位置する上海交通大学医学院附属新華 (XinHua) 医院を訪れました。結論から言うと、今回視察した上海の病院で総合的に日本人に一番お薦めの病院です。関連病院として、上海児童医学中心と言う名の有名な子供病院もあります。今回は訪問しませんでしたが、子供には絶対この病院がいいようです。それもそのはず、歴史的には、紅十字病院で小児病院として発展したそうで、小児心臓手術や双胎分離術などで有名なようです。
今年創立50周年のようで、病院のスタッフも我々日本旅行医学会の視察団を大歓迎してくれました。呼吸器科が専門の徐院長、女医さんで埼玉医大と久留米大学に留学経験のある日本語が堪能な段先生、他多くの医者や事務員が応対してくれました。段先生に久留米ラーメンはどうだったと聞くと、とてもおいしかったと言っていました。そう言えば、上海では久留米に近い熊本ラーメンのチェーン店、味千ラーメンの看板をたくさん見かけました。
救急外来ももちろん充実していますし、一言で言えば、近代的で清潔で広々とした病院です。透析室も広々として清潔で、一日3回転(午前、午後、夕方)しているようです。感染予防のために、B型肝炎患者と非B型肝炎患者を分離した部屋で透析しています。全部で40〜50台の透析台があり、まだ余裕があるようです。つまり、日本からのツアーの患者の透析等も受け入れ可能なようです。
心臓カテーテル手術も経験豊富で、もちろん留学経験のある心内科の王先生が中心です。 CT および MRI も最新式のものがあります。特需(VIP)室は14床で、今は 90% が中国人富裕層だそうで、料金は中国人が 1,500元、外国人が 3,000元です。但し、豪華な病室ですが、珍しくテレビは液晶ではなく、ブラウン管でした。と言うのは、今まで見た他の病院の特需室では大きな液晶テレビがありました。だいたいどこの特需室も、二つのベッドの部屋を個室として使っていました。たぶん、付き添い者が寝れるのでしょう。
我々が大歓迎された証拠に、院外の高級なレストランへ出かけ、院長はじめ10数人のスタッフと我々視察団で豪華な昼食を食べました。これが中国式の歓迎のはずです。
午後は病院に戻って、いよいよ具体的な提携などの話し合いになりました。例えば、お金の支払いは直接日本の AIU保険や東京海上火災保険で行うというものです。他の病院では、どうも色々な仲介があり、料金がかなり不明朗で北京と比べても格段に値段が高いというのが上海の問題点だからです。我々からの提案として、
病院内の表示を中国語以外に、英語、日本語、できれば韓国語もと申し出ました。受診の手順の flow chart もあればわかり易いとも提案しました。
日本語通訳も前もって電話予約しておけば可能だということです。医者だけでなく、ナースや管理者の日本への留学を希望するということで、日本旅行医学会との積極的な交流を希望していました。フロリダの大学とはもう5年間の交流があるそうです。
この日は、新華医院で時間を費やしたので、午後3時半頃に次の第二軍医大学東方肝胆外科医院を訪問しました。肝癌専門の病院で、非常に有名な院長自ら応対してくれました。アジア最大の専門病院で年間30万人もの患者が訪れるそうです。肝細胞癌と胆管癌のみを扱っており、救急外来はありません。中国にこんな立派な専門病院があるとは知りませんでした。ある意味、驚きです。でも、我々の今回の視察の目的はメディカル・ツーリズム(医療観光)、つまり治療が目的で海外へ旅行する、ではなく、あくまでも海外旅行者や上海在住の日本人が受診する可能性の多い病院を調べに来たので、この病院はそういう意味ではあまり重要性はありません。
最後の夜なので、夕食後は一人で按摩(マッサージ)の店へ行きました。朝のジョギングで辺りを散策して様子がわかっています。朝と夜ではずいぶん顔が違いますが。260〜380元程度の値段のマッサージが多いです。でも、明らかに怪しいマッサージの店もあります。下着姿のような女性の格好を見れば一目瞭然です。もっと安い30元の足つぼマッサージの店に入りました。結構45分くらい真面目にやってくれました。でも、隣で友達らしい3人がトランプをして遊んでいます。この辺のいい加減さは私には気になりません。こういう国は多いです。盛んに肩マッサージもどうかと誘われます。足つぼマッサージが値段の割に満足できたので、了解しました。そしたら、薄暗い二階へ連れて行かれました。今度は回りに誰もいません。でも、しばらく肩マッサージをまじめにしてから、さかんに彼女の手が股間にやって来ます。やはり、下心があるようで逃げ帰って来ました。そんな予感がないこともなかったのですが。
【最終日】
今日は帰国の日ですが、最後にやや市内から遠く南部郊外(松江地区)に位置する交通大学附属第一人民医院(上海市第一人民医院)(Shanghai First People’s Hospital)を午前中に訪問しました。いつものように、朝のラッシュを避けるために、タクシー、地下鉄、タクシーを乗り継いだのですが、2時間近くかかりました。2010年の上海万博の会場の近くらしいです。ドイツ人設計の近代的な巨大な建物のかなり大規模の病院です。そして、近くに三角形の会議場も所有しています。副院長はじめ多くのスタッフが応対してくれました。他の多くの病院と同じように、まずプロモーション用のビデオを見せてくれました。
この病院は歴史があるようで、1864年に総合病院として開設されたようで、1953年に上海市第一人民病院となり、市内中心部、虹口地区(たまたま我々のホテルの近くで、ジョギング中に見つけた病院)に現在改築中のと、今回訪れた郊外の2ヶ所に同じ名前の病院があるようです。ここも医者の多くは、ドイツ、アメリカ、日本などへの留学経験があるようです。
北部(虹口地区)と南部(松江地区)の二つの同名の病院で、医者が月、水、金と火、木で移動(要するに、二つの病院をローテート)するようです。日本ではこんなシステムはあまり聞いたことがありません。
この病院(松江地区)の説明は、ややこしく、二つ合わせてなのか単独なのか一部不確かです。いずれにせよ、1,580 床で、年間手術件数が 17,400 例だそうです。産婦人科と小児科が特に有名らしく、検診にも力を入れているそうで、在留日本人患者もだいぶいるようです。がん検診で有名な PET-CT もあるそうです。乳がん検診用のマモグラフィもあり、日本人受診者もいるそうです。心臓カテーテル手術もたくさん施行し、救命率も高いそうです。外人は特別扱いの透析室(北部に16台、南部に20台)もあり、一透析当たり800元程度のようです。伝統医療である漢方もあり、学会発表や論文も多数だそうです。
北部と南部の両病院に国際医療保健中心という名の外人用病棟もあり、日本、米国、東南アジアの患者が多いそうです。外人は
Green pass 扱いで、優先して診てもらえるようです。ここには、山梨へ留学経験のある日本語のわかるナースが1人いました。英語はほぼ全員通じるそうです。但し、今は70%が中国人の患者だそうで、料金も高いのでもちろん富裕層に限られます。今まで、脳出血、心筋梗塞、外傷、肺炎などの患者が入院したそうです。
一通り病院見学が終わったところで、女医さんから昼食に病院の食堂に案内されました。もちろん、大した食事ではありません。大歓迎された新華病院とは雲泥の差です。我々がそんなに歓迎されてないことがわかります。しかも、ここの昼食を食べた後で私は吐き気を催しました。病院の食堂であたったのでしょうか?幸い、しばらくして自然治癒しましたが。確かに二度目の中国は、特に上海はおいしいのですが、やはりこのように下痢や吐き気などの心配が拭えません。この国のあまりにも極端な貧富の差が改善されない限り、何でもありのこの国では食に関しても同じでしょう。食いしん坊の私ですが、さすがに安心して食べれないようではおいしい以前の問題です。残念です。
いよいよ帰国です。タクシーと地下鉄で駅へ移動しリニアモーターカーに乗り、10分もかからずに浦東空港へ着きました。2ヶ月前に乗った時は、朝なので何故か最高速度を300km程度に抑えていましたが、今回は実際に430kmくらいのスピードを体験できました。いずれにせよ、乗っている時間はたったの10分間程度です。
山手西洋館のクリスマス(2008) ? 元町公園からイタリア山庭園へ(by ももらんさん)
山手111番館を筆頭に4つの館を見学し、元町公園で小休止です。
12月初旬とはいえ暖かく穏やかな日だったせいか、かなりな人達が西洋館めぐりに繰り出していました。
幕末から外国人居住区として国際的な町だった山手。
現在もインターナショナルスクールなどが存在し、
バギーを押したり犬の散歩をしている外国人の姿などが頻繁に見掛けられます。
そのような外国人の姿とともにカトリック教会や西洋館などのたたずまいが、異国情緒あふれる街並みを作り出しているのです。
さて、冬の日は短いので急がないと。。。
後半は「べーリック・ホール」「外交官の家」「ブラフ18番館」の3つの西洋館です。
http://www.hama-midorinokyokai.or.jp/seiyoukan/yamatesho2008.html(山手西洋館のHPです)
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外交(がいこう)とは、国家が代表を通じて諸外国との関係を処理する活動。内政の対義語。
国家の対外的行動の基本原理が国益である。経済的利益や安全保障、国家威信などであり、国家の追求する利益を調整するのが外交であるといえる。狭義としては、利益を増進させるのが外交で、リスクを軽減するのが安全保障とされる。
広義には、外交は外交政策の決定と政策の実現を行う交渉過程を含むが、狭義には交渉過程を指す。通常は後者の意味で使用される。民主的な政治制度の下では、外交政策の決定は秘密であってはならないが、交渉過程は秘密であっても良いとされる。
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外交の詳細